今日はあの阪神淡路大震災から22年の節目。
かかる大災害は人智を超えたものであり、私たちはただ現実の巨大さに、瞑目する他ありません。
事実は小説より奇なり、と申します。
まこと、この世に起こることは、フィクションを超える驚嘆すべきことばかりです。
例えば9.11のテロ。
あんなことは、どんな物語作者でも思いつかない奇想天外な事件でしょう。
さらにはオウム事件。
古くは浅間山荘事件。
現代社会において、小説よりも奇妙な事件がいくつも起きています。
小説をはじめとする物語は、あくまでも虚構であって、現実を模したものであっても、現実を超えるような、一種の怪異譚であることが、その本質であろうと思います。
例え恋愛小説や、サラリーマンの哀歓を描いた小説であっても、そこには必ず、現実を超えるような奇妙な味がなければ、凡庸な作品になってしまうでしょう。
現実を超えること、言わば超現実こそが、小説の真骨頂であろうと、私は確信しています。
で、事実は小説より奇なり、という言説。
これは、小説は本質的に現実を超えることができない、ということを端的に表したものかと思います。
絶望的な言葉と言ってもよいでしょう。
であるならば、物語作者は常に、現実よりも奇妙な世界を現出せしめるべく、研鑽を怠ってはならないでしょう。
もしその努力を怠るなら、物語は奇なる現実に敗北し、虚構の存在意義そのものがゆらぐことになりかねません。
一方私は、このブログでたびたび、真実は物語の中にしか存在し得ない、と指摘してきました。
その考えは今も変わりません。
それこそが虚構世界の存在意義です。
例え奇妙さで現実に敗北することがあっても、真実の確からしさは、自然科学などの学問ではなく、どうしても物語によって示されると思っています。
自然科学は、どのように世界は存在するかを究明するものであって、どうして世界が存在するか、世界存在の真実は奈辺にあるかは、物語や芸術によって示されるものです。
それは学問が得意とする証明などではなく、予感や直観によって導き出されるものであって、学者と芸術家は似て非なるものだと言えましょう。
私はあくまで趣味で小説執筆を行う素人に過ぎません。
しかし素人だからこそ、売れる売れないを気にせず、現実と物語との闘争に励むことができるという面もあります。
超現実の中に真実を示すことができたなら、それこそが小説の勝利であり、物語と現実を結ぶ接点になるでしょう。