知らないほうが良いこともあります。
明日、例えばとても忙しくなると知っているより、出勤してみたらめちゃめちゃ忙しかったというほうが、予期不安に襲われなくて済みます。
私を苦しめるのは、専ら予期不安であって、実際に仕事をするとなれば、不安を感じている暇も無くなります。
明治から大正にかけて、神経症の治療にあたった森田正馬博士は仕事に熱中して症状のことを忘れている状態をものそのものになると言って治療にあたって重要な要素であると喝破しました。
森田博士が治療していたのは対人恐怖や赤面恐怖症、不潔恐怖症、パニック障害など、いわゆる精神病とは言えない、軽度の患者ばかりでした。
しかしそうは言っても患者は自分が世界一不幸だくらいに思っているので、治療は大切です。
現代であれば、良い薬がたくさんあって、森田神経質と言われる患者は適切な服薬治療で治ってしまいます。
これを患者が集まって勉強する組織に生活の発見会というのがあります。
私は何度かこの集まりに参加してみましたが、実にいかがわしい集団でした。
この時代に薬を否定し、明治大正の頃の根性で治すみたいなことをやっています。
勉強会はもはや森田教信者の集まりのようになり、普通の感覚ではついていけません。
それでも治れば良いですが、森田教の目指すところは症状に苦しんでいたとしても、通常の日常生活を送れれば良いとしている点が実にうさんくさい。
症状を取るために生活の発見会に足を運んで最初に感じるのは絶望です。
10年も20年も森田教を勉強しても症状は取れないのです。
それでも日常生活を送れていることをもって自分は完治したと言い聞かせ、生涯神経症に苦しむのです。
そんな先輩たちを見てなおこの集団に入るのは、一種の新興宗教だからかと思います。
森田療法と仏教の類似はたびたび指摘されます。
心は流れていくものであって、いつまでも一つところに留まってはいられない。
心は流れていくものだということを心の底から得心すれば、症状はあるままに治癒したというのです。
なんだか禅問答のようです。
倉田百三は「治らずに治った」と言ったそうです。
私の場合はそもそも神経症では無くて双極性障害なので、森田神経質の治療対象ではありませんし、服薬を否定するなんてあり得ません。
それでもこの療法に興味を持ったのは、仏教的無常観を背景とした極めて日本的な療法だからかと思います。
薬無しで治すということの意味を知りたいとも思いました。
しかしそれは不可能なことで、不可能を可能にする無駄な努力をしているように感じました。
断酒会などの自助グループに頼るのは危険ですね。
訓練を受けたプロである現代の医師の治療が一番です。