病みつつ我は

文学

 5月12日に飲み仲間であった三つ年上の悪友が47歳の若さで果かなくなってしまったことは、その日のうちにこのブログで報告したところです。

 近しい人が亡くなるということは誠にしんどいことですが、ただしんどいだけではなく、おのれの死を考えるきっかけになります。

 「哲学は死の練習である」とソクラテスは言い、「死がなければ哲学もなかったであろう」とショーペンハウアーは言ったそうですね。
 ことほどさように人間にとって死というのは重要で興味深い問題です。

 いつでしたか、テレビで西部邁も「死と宗教」の問題だけが人間にとって唯一の関心事だ、といった意味のことを言っていましたね。

 私が最も死に近づいていたの平成16年から17年にかけて、うつ状態が激しい頃で、最も深く人の死について考えたのは2年3カ月前の父の死から数ヶ月の間でした。

 いずれもかなり直接的な理由があったためで、人間、切羽詰まらないと、おのれの死というがごとき重要なことも忘れてしまうようです。

父の齢(よはひ)に 至らざれども 良寛の 示寂に近し 病みつつ我は 
 
 宮柊二の歌です。

 父親の寿命よりは若いけれど、良寛の死期に近づき、死を意識したという意味でしょう。

 一種強烈な印象を残します。


宮柊二歌集 (岩波文庫)
宮 英子,高野 公彦
岩波書店

 私の父は良寛よりわずかばかり早死にしていまいましたので、この歌をそのまま読み取ることはできません。

 しかし、45歳で自死を遂げた三島由紀夫の年齢まで、あと2カ月を切りました。

 三島由紀夫と良寛ではその生き方に大きな差があり、また、高僧の死を意味する示寂という言葉を三島の自決に結び付けることはできません。

 そうは言っても、高名な文学者が亡くなった年齢に近づいたことをもって、病んだ我を思うことに共通点はあろうかと思います。

 私は精神障害の治療を継続していますが、正直、今の自分が病んでいるとは思いません。
 まして死に近づくような状態はとうの昔に克服したと思っています。

 しかし、病みつつ我は、の意味するところを、何も具体的な病気に罹患していると解釈する必要もないでしょう。

 人の致死率が100%である以上、すべからく人は死に向かって、病みつつ生きていると解するほうが、この歌の凄みは増すように思います。

 病みつつ独り死に向かう我というのが人間の本質だとすれば、それはずいぶん絶望的な状況ですが、それでも人は、恋をしたり、友人と酒を飲んだり、旅行やスポーツを楽しんだり、仕事に精を出したり、文学芸術に心躍らせたり、様々な楽しみを慰めとして生きています。

 マズローやコリン・ウィルソンの「至高体験」などは、これら楽しみによって得られる幸福感とそれに伴う自己実現こそが人生の本質であると考え、人生をポジティブに捉えて、多くの人を喜ばせました。


マズローの至高体験
渡辺博文
メーカー情報なし

 

至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫)
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦
河出書房新社

 しかし私は、それら至高体験の存在を実感しつつ、それが人生の本質だと実感することはできません。

 家族や友人に恵まれ、多くの趣味を楽しんでいればこそ、そこにどうしようもなく孤独で、死に向き合わなければいけない我に気づいてしまうと思うのです。

 我一人の孤独に向き合いつつ、必ず訪れる死の瞬間まで、一人びとりが、我なりの死への解釈を求め続けることしか、生きる方法は無いような気がしてならないのです。

 それはとてもきついことだとは思いますが。

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