真の花

文学

 今日は年に一度のマンション管理組合の総会が行われました。
 10時から13時半まで。
 3時間半もかかってしまいました。

 私は理事長のため、議長の役を果たさなければいけない立場。
 しゃんしゃんで済めば1時間もかからなかったはずですが、一生懸命理解しようと努めたのでしょう、80歳は過ぎていると思われる爺さんが何度も質問してくるわ、荒らし屋みたいな中年男が大きな声を出して突っかかてくるわで、大変疲れました。
 結局二人とも10個ある全ての議題に賛成したのですが、何か言わないとおさまらない面倒なやつが必ずいるものです。

 しかしこれで一年間の理事長の仕事をすべて終えました。
 理事長印を選出された新理事長に渡して、お役御免。
 ほっとしています。

 明日からはまた仕事。
 今週は難問山積で、今から憂鬱です。
 きっと連日大残業になるでしょう。

 なんだか最近公私ともに忙しく、心と体を休める暇がありません。
 
 はたらけど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る

 上掲の石川啄木の短歌が頭の中を駆け巡ります。

 本来は収入が少ないことを嘆いたものでしょうが、今の私には収入のことではなく、永久ループのように繰り返す仕事の波に疲れ果てる安サラリーマンの嘆きのように聞こえます。

 20代後半の頃は、ある程度仕事に慣れて自信をつけ、しかも何の責任も無いヒラだったこともあって、天下を取ったような気分でした。
 しかしある程度年を食って役が就くと、そういう意味不明の自信はきれいさっぱり失せてしまいます。

 おそらく諸先輩方も同じような苦労を重ねた末に、待望の定年を迎えたのでしょうね。
 20代の頃は記憶力が低下し、上司と部下に挟まれて疲れた顔が張り付いた中年や初老のおっさんを馬鹿にしていたものですが、今は私がそういうおっさんになってしまいました。

 人に起きることは大抵自分にも当てはまるようです。

 そう考えてみると、おっさんというもの、疲労こそが真の花なのかもしれません。
 少年には少年の、青年には青年の時分の花というものがあって、しかしそれは年とともに失われる幻のようなもので、年を経てこそ真の花が現れると説いたのは、能楽の巨人、世阿弥でした。
 名著「風姿花伝」に見ることが出来ます。

 しかし真の花が中年期なのだとしたら、あまりにも過酷です。
 おそらく真の花が咲くのは、もう少し年齢を重ねて、過酷を通過しなければならないのだろうと思います。
 この過酷を耐え抜かなければ真の花という美は生まれないのでしょう。
 能楽の概念である時分の花真の花というもの、あらゆる人生においても現れるのではないでしょうか。

 私が真の花を咲かせるのは、一体いつになるのでしょう?