石打公開処刑

社会・政治

 怖ろしいニュースにふれました。

 パキスタンの27歳の兵士が、10代後半の女性と恋に落ち、駆け落ちしようとしたとして、石打ちによる公開処刑に処せられたというのです。
 女性のほうも処刑判決を受けたそうですが、執行されたかどうかは不明だそうです。

 なんでもパキスタンの田舎では、裁判所ではなく、部族長老の決定によって、刑が決まるのだそうです。

 いくらなんでも公開処刑とは穏やかではありませんねぇ。

 江戸時代、わが国では心中を厳しく禁じました。
 心中という言葉の使用も禁止し、相対死(あいたいじに)と呼びました。
 心中によって2人とも死んだ場合には葬儀を禁止し、片方が生き残った場合は死罪とし、両者とも生き残った場合には、非人の身分に落としたとか。

 そうなると、何が何でも心中を成功させなければなりませんね。

 しかし心中と駆け落ちでは、また次元が違います。
 心中は命を疎かにする行為ですが、駆け落ちはあくまで生きようとする行為。
 しかも恋を成就させようとする強い生きる意志が感じられます。

 それを、公開処刑。
 残酷に過ぎるではありませんか。

 男女の間のことに法やお上が口を挟むのは野暮というものですが、そういう理屈では考えない部族が未だに存在するのですねぇ。

 わが国には重婚罪というのは存在しますが、姦通罪というのはありません。
 つまり、不義密通はわが国ではモラルの問題であって、法的に裁かれるということはないわけです。
 その代り家庭が崩壊するかもしれませんが。

 お隣、韓国では姦通罪が存在するそうです。

 結婚したって別の異性と恋に落ちることはよくあることで、これを一々摘発していては、警察官がいくら居たって足りません。

 わが国は古来性に関しては大らかで、性を楽しむことは人生の楽しみの一つであり、罪悪感を感じるようなことではありません。
 それは異性愛も同性愛も同様に扱う、バイセクシャルをむしろ良しとする文化につながったものと思われます。

 そのような性文化をもつわが国からみれば、駆け落ちで公開処刑とは信じがたい暴挙です。

 しかし、世の中はあまりにも多様であり、価値観は時代や場所によって大きく異なるのだということを、肝に銘じなければなりません。

心中への招待状―華麗なる恋愛死の世界 (文春新書)
小林 恭二
文藝春秋


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