明治7年から昭和23年まで、今日、4月3日は祭日でした。
以前だったらお休みできたのですねぇ。
悔しい。
初代天皇である神武天皇の忌日ということで、神武天皇祭と呼ばれていたそうです。
この日、かつては現役の今上陛下は奈良の橿原神宮に詣でることを慣例にしていたそうです。
嘘か真か、没年は紀元前586年と伝えられますから、ずいぶんべらぼうな話です。
実在したかどうかすら疑わしい天皇ですが、わが国民は古事記や日本書紀に伝えられる神話をわが国がわが国たるための物語として受け入れ、それによって国柄が形成されていったものと思われます。
今も、先帝とその3代前の天皇と神武天皇の忌日には、宮中で祭祀が行われているそうです。
そしてもちろん、橿原神宮をはじめとする全国の神武天皇を祀る神社ではこの日に祭祀を行っています。
記紀には、古代、120歳を超える天皇が何人も登場し、これが古代の天皇はフィクションだとする説の根拠の一つになっていますが、中国の古い歴史書によれば、わが国ではかつて、半年に一つ年齢を加算する風習があったとのことで、そうであれば130歳は65歳ということになり、当時としては長生きにしても、あり得ない年齢ではないことになります。
だから神代の天皇は実在した、と言い張るつもりはありませんが、実在した可能性は否定できないと思います。
もちろん、その頃は天皇という称号は存在せず、スメロギ、スメラミコト、オオキミなどと呼ばれていたそうです。
中華帝国の朝貢国となって中国皇帝から王の称号を授けられることを潔しとせず、スメロギは中国皇帝と同等あるいはそれ以上の存在であることを明らめるため、後に天皇という偉そうな称号を考え出したわけです。
聖徳太子が有名な、日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、という国書を隋の皇帝に送った際、隋の皇帝は日が昇るとか沈むとかいう言葉には反応せず、二人ともに天子という、本来中華帝国皇帝にしか許されない称号を使ったことに激怒したと伝えられます。
最近のわが国は中韓の顔色をうかがって大人しくしていますが、聖徳太子の時代も、元寇の時も、朝鮮出兵の時も大日本帝国時代も、一貫して誇り高く、傲慢な態度を貫いていたのですね。
しかし、国民性はそう簡単に変わるものではありません。
一朝ことあらば、わが国民は一夜にして誇り高く傲慢な態度を取り戻し、誰が相手でも臆することなく対峙するものと私は確信しています。