精神の運動

文学

 砂漠の国々では、連日、激しい戦闘行為が繰り広げられていますね。
 ユダヤ教もイスラム教も相手の信仰を認めることがどうしても出来ないようです。

 困ったものです。

 私には何の力も無いため、それら残虐な戦闘行為を、ただ呆然と眺めていることしかできません。

 歯がゆいかぎりです。

 もっとも私は、おのれ一人の魂さえ救えない愚か者なのですから、国際紛争というがごとき複雑な問題は、理解することすら困難です。

 イスラム原理主義者のテロも卑劣ですが、圧倒的火力で攻撃を続けるイスラエルもひどいものです。

 要するに、どっちもどっち。

 石川淳に、幕末に暗躍する隠れキリシタンの死闘を描いたスリリングな小説、「至福千年」というのがありました。

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)
石川 淳
岩波書店

 山田風太郎を思わせる伝奇ロマン的な作品でしたが、そこで頻繁に登場する言葉が、石川淳お得意の精神の運動という言葉。

 隠れキリシタンンの運動は、そのまま精神の運動でもあったわけです。

 おそらくイスラム原理主義者も、ご当人のなかでは精神の運動のつもりなのでしょうが、結果として残されるのは、無辜の市民の死体の山。

 石川淳という作家は、戦前の共産党に材をとったり、現代のヤクザを取り上げたり、あるいははるか戦国期の武将の活躍を描いたり、おのれの信念に基づき、犯罪行為も辞さない集団の暗闘を描くことで、精神の運動という概念を明らめようとしてきました。

 それらは哲学的で難解でいながら、流麗な文体で読みやすく書かれ、私が最も偏愛する作家の一人です。

 90歳を過ぎてなお執筆を続け、亡くなるその日の朝まで書き続け、未完の大作「蛇の歌」を残しました。

蛇の歌
石川 淳
集英社

 壮絶な作家魂ですねぇ。

 虚構の世界でどんな犯罪行為を犯しても構いませんが、現実に実力を行使したのでは、それは全く精神の運動などという代物ではなく、単なる殺し合いです。

 かつて各宗派の僧侶が、それこそつかみかからんばかりに法論を交わしながら、決して殺し合いなど行わなかったことをお手本として、イスラム原理主義者にも、ユダヤ教徒にも、言論によって互いの主張を話し合うことを切に願います。

 人のふり見てわがふり直せ、と申します。
 迫害されない限りは決して武器を取らない仏教徒に学んでほしいものです。

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