2015年の9月に人類が滅亡するという噂が飛び交っているようです。
マヤ暦から解釈したり、ほかの多くの予言などから導き出したようです。
もともとマヤ暦では2012年が滅亡の年とされ、その年にも騒いでいましたが、なんでも閏年を換算していなかったとかで、それを考慮すると2015年になるんだそうです。
なんとなくご都合主義のような。
平安の昔、人々は末法の世になることを怖れ、世界の終わりを怖れました。
また、1999年には、ノストラダムスの予言から、人類滅亡を本気で信じる人々が現れ、その数字の並びの不吉さも手伝ってか、テレビなどでさかんに人類滅亡への警鐘が鳴らされました。
SEKAI NO OWARI というそのものズバリの名前を持つバンドが人気を博すなど、またもや人類滅亡という観念に人々は浮かれているようです。
不思議なことに、人類滅亡とか世界の終わりとかいう観念には、人々を高揚させる力があるようです。
SF映画などでもその手のテーマを扱った作品は数知れず。
いずれもどこか感傷的に、この世の終わりを描いています。
なるほど、地球の命が永遠で無い以上、人類はやがて滅亡するでしょう。
しかし、核戦争が起ころうと、天災地変が頻発しようと、今年の9月に人類が滅亡するはずもありますまい。
未来は誰にも分らないとは言うものの、9ヶ月後に人類が滅亡することはないであろうくらいのことは、常識的に考えて当たり前だと思います。
平安の末法思想、1999年のノストラダムス、その他個別の宗教もしくは似非宗教が、終末は近いと説くことで信者を獲得し、巨額のお金を得てきました。
オウム真理教のハルマゲドン然り、太陽寺院の集団自殺然り。
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私は今年の9月だと一部で騒がれている人類滅亡の予言など、相手にする気はさらさらありません。
しかし、人々が何故終末に一種の憧れを覚え、渇望するのか、その心理には興味があります。
現実逃避か、あるいは狂信か、さらには絶望ゆえの自暴自棄から来る怠惰な精神か。
私はかつて、終末を渇望する青年を主人公とするお話を書いたことがあります。
もちろん、終末はいつまでたってもやってきません。
青年は深い絶望に沈むのです。
それはあるいは、若かりし日の私を投影したものであったかもしれません。
若い頃、私は大量虐殺の執行者や、大量破壊の指揮官となって、この世を地獄絵図に変貌せしめ、そのスペクタクルに酔い痴れることを夢想しました。
多くの青少年は、多かれ少なかれ暴力への志向を隠し持っているもので、それをまさか実行することは出来ず、ただ夢想したり、あるいは終末を描いた物語や予言を求めたりするのでしょうね。
そして大人になって社会に出れば、自然と、そんな馬鹿げた観念への興味を失っていくのでしょう。
それを成長と呼ぶのか、精神の堕落と呼ぶのかは別にして。
そう思うと、このたびのマヤの暦に始まった終末騒ぎ、主に青少年の昏い欲望が底辺に渦巻いて作り出したもののような気がしてなりません。