今日もお上の要請に従って、昼飯を食いに外出した以外は、家に閉じこもっていました。
コロナ太りは必至でしょうねぇ。
帰宅後、かの有名な「ベン・ハー」がテレビで放送されていたので、なんとなく、観てしまいました。
ローマ時代のユダヤの王族を描いた大河ドラマ、というくらいしか知識がなかったのですが、観てみたら、キリスト礼賛みたいな話なのですね。
大河ドラマとしては面白く鑑賞しましたが、ラストがキリストの磔と奇跡の誕生というのでは、少々白けます。
まともにキリスト教を信じている人には、必然とも言うべきラストなのかもしれませんが、日本人の大半はキリスト教徒ではありませんし、私がそうであるように、ずっこけたのではないでしょうか。
あの長い長い映画は、何のために作られたんだろうという疑問を感じます。
キリスト教のことはよく知りませんが、隆盛の始まりが教祖の磔というのは、なかなかに残酷なものです。
後に多く生まれるキリスト教の宗教絵画は、私にはどれもSMっぽく感じられます。
しかしながら、欧州を始めとして、多くの人々があの宗教を信じ、信じるからこそカソリックとプロテスタントの殺し合いなどが生まれ、さらには多くの亜種とも言うべき新興宗教が生まれたのでしょうね。
魔女裁判やら異端やらアンチ・キリストやらの弾圧が生まれ、時代が進むと植民地獲得の道具となり、キリスト教は悪の帝国たちの精神的支柱として生き残ることになりました。
今となってはキリスト教は形骸化し、もはや過去の遺物のごとき存在になり果てました。
もっとも、葬式仏教と揶揄されるわが国における仏教の様相も、キリスト教以上に形骸化しているとしか言えませんが。
私の知り合いにスイス人の青年がいますが、彼曰く、欧州においてはまともにキリスト教を信じている者は少数で、多くは形だけの信者だとか。
わが国における仏教と一緒ですね。
一人の青年が言うことですから、それを信じてはいけないのかもしれませんが、キリスト教にしろ、仏教にしろ、もはやその命脈は風前の灯と言ってよいのではないでしょうか。
太古の昔から、人間が知りたいと願い続けてきた唯一のことは、生と死の問題だと思います。
なぜ、あるいはどこから生まれ、なぜ、あるいはどこへ死にいくのか。
そしてこれだけは、絶対に知りえないことでしょう。
唯一知りたいことは絶対に知りえない。
悲しいことです。
人間の願望に応えようとしたものが宗教なのではないでしょうか。
ただし、そこに答えを見出すには、矛盾や疑問を封印して、頭から信じ込むしかありません。
信じ込めれば幸せでしょうが、現代を生きる人々は、なかなか信じ込むことが出来ないでいます。
キリスト教にしろ仏教にしろ、頭から信じられる宗教になるには、大幅なリニューアルが必要なようです。
あるいはまったく新しい、世界的宗教の出現を待つしかないのでしょうか。