職場の庭に植えられた紅梅が、見事に咲いているのに気付きました。
満開になるまで気付かないとは、我ながら迂闊です。
平安期に桜が好まれるようになり、江戸時代以降は花見といえば桜と定まりましたが、古く、奈良時代頃には、花といえば梅を指したと伝えられるほど、梅はわが国の人々に愛好されてきました。
早春、凛列たる空気の中、可憐に咲く様が人々の心をとらえたのでしょう。
また、桜よりもはるかに長く楽しめる点もよろしかろうと思います。
桜には狂気が似合うのと対照的に、梅には落ち着いた風情があります。
桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿、という言葉があるほど、梅は剪定に強く、生命力の強さを象徴してもいるのでしょう。
桜が咲くと、私の心はざわつきますが、梅の場合そういうことはありません。
梅を詠った詩歌は数知れませんが、私は何度かこのブログで紹介した与謝蕪村の句をもって嚆矢とします。
白梅(しらうめ)に 明くる夜ばかりと なりにけり
というものです。
臨終の床にあって、あの世は愛する白梅が毎朝咲く夢のような世界なのだろう、と詠んでいるわけです。
桃源郷を端的に表すのに白梅を使うあたり、その心性がよくわかります。
そのような世界では、心をざわつかせる桜は似合いませんから。
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玉城 司 | |
角川学芸出版 |
できることなら、私はサラリーマンを続けながらでも、文学にせよ美術にせよ、美的な世界に遊び、酒に酔ったまま日月を重ね、老いていきたいと思っています。
もちろん勤務時間中にはそれは叶いませんから、終業後やお休みの日に、思い切って酒を飲み、酔った頭のまま美的作品群に耽溺したいと思います。
そのように老いたなら、現実社会で身に着けてしまった垢はすべて洗い流され、美しい老人になれるのではないかと思うのです。
与謝蕪村のような郷愁を感じさせる美しい句を作る才能は私にはありませんが、せめて先人が残した名品を鑑賞することで、わが国における美意識の本質に迫りたいと思っています。
それは何も学術的に研究するということであるはずがありません。
ただ私が感じるままに、直感的に、その本質を感得しようというのです。
それが成った時、私は人であることを止め、美の仙人に変じていることでしょう。