義理

思想・学問

 かつて、私の職場においては、今日という日、義理チョコなるものをを10個も15個ももらい、それらを食したなら、歯を悪くし、血糖値を上げる、憎むべき日でした。

 それがここ10年ばかりの間に廃れてきて、歯にも血液にも害を及ぼさない、爽やかな、というか普通の日になりました。

 誠に喜ばしいことです。

 義理チョコなるものは廃れてきましたが、世の中には止めてしまったほうが良いように思われる悪習がたくさん残っています。

 中元歳暮、年賀状、香典に香典返し。

 さらには、さして親しくも無い親戚、友人、知人とのお付き合い。

 虚礼、と言ってしまっては大げさでしょうか。

 世の中、義理を欠いてわたっていくのは困難で、私自身、これらの面倒事を引きずりながら生きています。

 しかしながらスッタニパーダ(原始仏典)において、お釈迦様は、「犀の角のようにただ独り歩め」と説いています。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
中村 元
岩波書店

 同時に、真に優れた友との交友をも重視する文言を残していますが、人間関係から苦悩が生まれることが多いことから、孤独は怖れるものではなく、むしろこれを求めて修行しなさい、ということなのでしょう。

 人付き合いというのは面倒くさいものですし、自己の内面に分け入っていく時間を喪失させるものでもあります。

 自己の内面を成熟させていくうえでは、孤独は最高の良薬です。

 しかし最近、SNS(social networking service)なるものが一般化し、くだらぬ縁でつまらぬ付き合いを広げる動きが加速しています。

 どんなものだろうかと、Facebook、Twitter、Instagramと、一通り試してみましたが、どれもつまらないのですぐに止めてしまいました。

 まぁ、長く続けているブログも広い意味ではSNSの一種でしょうけれど。

 これらは手を出さなければどうということもありませんが、新しい虚礼を生み出したとも言えるように思います。

 また、ボッチという言葉をよく耳にします。
 一人ぼっちの略称のようですが、これが否定的にも、時には肯定的にも使われることは、興味深いものです。

 当初は友達がいない寂しい人、といった意味で使われていたように思いますが、そのうち友達がいなくて何が悪い的な、一人を楽しむみたいな意味が加わったのだろうと推測します。

 私はこれを頼もしく思います。

 人間は極めて社会的な生き物で、古来、群れをなして生活し、一人きりで生きることは困難です。

 税金で作られた学校を卒業し、お百姓さんやら漁師さんやらが取った食べ物を食し、各種インフラのお世話にならなければ生きていけないし、全ては繋がっていることは事実です。

 この見えない繋がりに、深く感謝したいと思います。

 それはそれとして、内面の問題として、あらゆる虚礼を廃止し、仕事も辞め、家庭も捨て、行乞の旅に出たい、という昏い欲求を覚えます。

 その時こそ私は、犀の角のようにただ一人歩めるような気がするのです。