わが国においては、戦国時代にサンフランシスコ・ザビエルが耶蘇教を伝えましたが、ついにわが国にその教えが根付くことはありませんでした。
当時の宣教師の日記に、「日本人は他のアジア人と違い、日本人は極めて好奇心が旺盛で、天文の話などを熱心に聞きたがる、しかし、神の話には関心を示さない」と嘆いています。
宣教師は当然、神様の話を日本人に広げたかったものと思いますが、日本には八百万もの神様がおわしまし、そこに1柱くらい加えようがどうということは無いというのが、当時の日本人の素朴な感情だったようです。
今もなお、日本人は耶蘇教に転じる人はごくわずかで、実家の宗旨を知らなくても、とりあえず仏教徒であるという意識だけはあるように感じます。
実家の宗旨を知らないことは、責められてもおかしくないように思いますが、私は逆に感じます。
仏教は東南アジアの上座部仏教(小乗仏教)も、北東アジアで花開いた大乗仏教も、その根本は同じだという認識で一致しており、そこが小さな宗旨争いを繰り返す耶蘇教やイスラム教と大きく違っています。
実家の宗旨を知らなくても、大きな意味で仏教徒であるという自覚があれば、それは立派な仏教徒であろうと思います。
わが国の伝統文化の根本には大乗仏教があり、その深い意味を知らずとも、日本で生まれ育った人々は、知らず知らずのうちに仏教的価値観を身に付け、それを根本的な道徳律としてその生涯をおくります。
面白いのは、それを自覚していないのに、いつの間にやら仏教的価値観に基づいた行動をとってしまうこと。
仏教はあまりにも幅広い思想を持ち、しかも嘘も方便と言うごとく、苦しんでいる人を救うためには、嘘をも厭いません。
きわめてプラグマティックな宗教です。
浄土門にしても、禅門にしても、あるいは法華経にしても、すべて入り口が違うだけで、涅槃を目指すという最終目標は変わりません。
一方、キリスト教をはじめとするヤハウェの3宗教は、神様が7日で世界を作ったことと、最後の審判に関しては、絶対に譲りません。
一種のSFです。
それなのに、小さな違いをことさら問題視して、耶蘇教徒にいたっては、イスラム社会に十字軍などを送り込み、殺し合いを続けており、今もなお、イスラム原理主義者はキリスト教国家にテロを仕掛けています。
なんと愚かな。
なぜ小さな違いをことさら問題にし、争うのか、我々日本人には不思議で仕方ありません。
私たちなんちゃって仏教徒に出来ることは限られているようで、じつは大きなものだろうと思います。
なんちゃって仏教徒が、信仰について深く知らぬまま、幸せな人生を送っているその姿を世界に示すことが、そのまま宗教対立の愚かしさを示すことになるでしょう。
宗教に関して無節操と言われる日本人。
しかしその無節操には、限りない寛容が含まれていることを自覚し、世界に宗教的寛容の大切さをメッセージとして送り続けることが、寛容な国に生まれた日本人の使命であるように思えてなりません。