肉体

思想・学問

 私が長期病気休暇を余儀なくされていた頃、精神科医からさかんに散歩を勧められました。
 うつ状態にあると部屋に閉じこもってひたすら落ち込んでいくばかりでなく、急激に太って内臓の疾患にかかることも多いことがその理由のようです。

 休み始めたばかりの頃はとても用もないのに外を歩き回る気になれず、寝てばかりいましたが、病状の回復とともに、医師の勧めにしたがって歩くことができるようになりました。

 そこで気付いたことは、最初は嫌々でも、歩いているうちに調子が良くなって、気分も良くなるということ。
 もともとスポーツをする習慣がない、運動嫌いの私であれば、運動で気分が良くなるという話を知ってはいても、実感するのは初めてのことでした。

 そこで私は、肉体に閉じ込められた精神は、単に閉じ込められているのではなく、激しくその支配を受けていることを知ることになります。
 もちろん、うつ病などの疾患が、体を動かせば治る、なんて、巷間ささやかれている俗説を主張する気はさらさらありません。
 特に症状がひどい初期段階においては、服薬と休養が、良くなってきても服薬が重要であることは論を待ちません。

 そのことを大前提に、精神障害者であれ健常者であれ、肉体の運動が及ぼす精神上の影響は大であることを、私は思い知らされたのです。
 そんなことで、今ではすっかり散歩が好きになりました。

 嘘か真か、臨死体験を持つ多くの人が、死に臨んで、肉体から解放された状態は、言語では表せないほどに軽やかで心地よいものであることを告白しています。
 
 それが死の瞬間の苦痛を和らげるための一時的な脳内麻薬の放出であるのか、実際に精神が肉体から解放された快感なのかは、もちろん分かりません。
 しかしそれが実際に起こるのなら、私たち人間、いや生物全体にとって、生命が存在する意味を問いかける重要な手がかりになるような気がします。

 死が苦からの解放であるなら、なぜ生命はこれほど死を怖れるのでしょうか。

 もちろん、これは仮定の話で、死が不明の事態であることに変わりはなく、そもそも生命が死を怖れなかったなら、生命を維持せしめることが出来なくなることは当然の話です。

 しかしそれにしても、死が解放であるのなら、私たちは何をもって明日の生存に希望を持てば良いのか、という根源的な疑問を抱かずにはいられません。
 そのことに本能的に気付いてしまったなら、人は自死を選ぶ他無いような気がします。

 多くの自殺者が絶望の果てに死を選んだのだとしても、結果として彼らは賢明な選択をしたことになり、しかもそれは僥倖だったことになります。

 以上のことは、肉体と精神についての思考の遊びに過ぎませんし、それでも私たちは生きなければならないわけですが、死を怖れるという健全な本能を維持しながらも、死が解放であると解釈することは、徒らに死に恐怖を感じずに済む、一種の処世術として、心深くに留めておきたいと思うのです。