昨日41歳になり、私はあらためて来し方を振り返ったのでした。
実際に存在する私(existence)は、死に向かう一方通行の時間に閉じ込められながら、死に向かう時間を忘れて、あるいは無視して日常の雑事にかまけています。そこにあるのは、ハイデガー言うところの対象化された私です。
様々な日常との関係性のなかで生きている私とも言うべきでしょうか。
ハイデガーは、非対象化した生き方、脱自(ekstasis)を求めます。
これは理論としては面白いですが、実際には無理でしょう。ekstasisは恍惚とも訳され、性的絶頂の意もあります。
三島由紀夫は「絹と明察」という小説で、以下のように簡略に説明しています。
自己から漂い出して世界へ開かれて現実化され、根源的時間性と一体化する。
また、和泉式部の和歌に、
もの思へば 沢の蛍もわが身より あくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る
という、魂が遊離した恍惚状態を歌ったものがあります。
いずれも脱自(ekstasis)ですね。
私はこれらのことを知識として知りながら、やっぱり対象化した私でしか、生きられません。
また、同じ歌人の歌に、
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
という、絶望的な歌があります。
これは、脱自(ekstasis)の不可能を嘆いているようにも受け取れます。
最後に、素行不良の恋多き女、和泉式部らしい歌を一首。
黒髪の 乱れも知らずうち臥せば まづかきやりし人ぞ恋しき
ハイデッガーは哲学者ですが、脱自(ekstasis)を多少なりとも可能にするのは、宗教と芸術だけのような気がします。
ほぼ人生の折り返し地点に来て、私が求めるべきは脱自(ekstasis)なのか、それとももっと現実的な、例えば金儲けなどか、惑うおじさんなのです。
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