NTTアドの調査によれば、「実年齢よりも若く見られたい」と答えた人は男性が55.4%に対し、女性はなんと77.3%にものぼったそうです。
ずいぶん多いですねぇ。
私が小学生だった30年前くらいまでは、年相応に老けるのが良いとされていたように思います。
今思えば私が幼児の頃、祖母は50代だったはずですが、真夏以外は大抵地味な着物を着て、二言目には「あたしは年寄だから」と口にしていました。
最近は40代でも50代でも、変に若々しく見える人が増えたように思います。
食生活の変化や運動の習慣などがあるのでしょうが、何より社会の価値観が、若々しいほうが良い、という風に変わってしまったせいのような気がします。
私は165センチと身長が低く、顔のつくりが子供っぽかったせいで、35歳くらいまで5つ以上若く見られることが多く、それが悩みで、よく逆サバ読みしていました。
35歳なのに40歳だと言ったり。
私が28歳、同居人が29歳の時に籍を入れましたが、同居人はしばしば私を初めて見た知り合いから、「旦那いくつ年下?」などと尋ねられ、憤慨していましたね。
同居人が老けていたわけではなく、私が子供っぽかったのだと思います。
今では苦労が顔に出てきたのか、年相応に見られるようになり、喜ばしいかぎりです。
男の顔は履歴書とか言いますから、年相応に見られるのがよろしいかと思います。
見た目の若さにこだわるというのは、あまりにも切ないと思います。
古来、権力者は不老長寿の妙薬を求め続けてきましたが、誰もそれを手に入れた者はいません。
人は必ず老いるもの。
赤ちゃんが成長するのと同じことです。
その必然を無理やり否定しようとするのは、まさしく不可能を可能にしようとする虚しい努力に過ぎず、努力が報われることはなく、必ず深い失望の底に沈むでしょう。
よく、今が一番若い、という言説を耳にします。
昨日はすでに過ぎ去り、明日は今日より老いるわけで、今より若くなることは無い、ということで、全く的を得た言いようだと思います。
もし老いたくなければ、自殺するしかないでしょう。
若くして自殺すれば、老いに悩むことはありますまい。
現に川端康成は、「老醜をさらしたくない」と言って自殺しました。
ノーベル文学賞まで取った、日本的美意識に基づいた美しい作品を生み出し続けた文豪ですら、老いることを怖れたのですから、若さに執着するな、というのはあるいは酷なのかもしれませんね。
外見上の老いは、人それぞれ違った現れ方をします。
頭髪が薄くなる人、白髪になる人、皺っぽくなる人、シミができる人、顔がたるんでくる人、色々です。
私はなぜか髪はふさふさで黒々していますが、ずいぶんシミができました。
男でも、シミ取りの手術を受ける人がいるそうですが、それはイタチごっこに終わるでしょうね。
髪が薄くなるというのは、じつは結構良い老け方なのではないかと思います。
ジャン・レノやブルース・ウィルスみたいに極端に髪を短くして髭でも生やせば、禿がオシャレのポイントに早変わりします。
それが嫌ならかつらを被るという方法もありますし、薄毛はごまかしが効くように感じます。
いずれにせよ、中年、さらに老年を迎えた者は、堂々と老ければよいと思います。
堂々と老けて、生きてきた長い時間を顔で示せばよいのです。
それは青少年への人生教育になるでしょう。
人は必ず老い、若さは一瞬のきらめきに過ぎないことを、その衰えた姿で示すことが。
生きている限り時々刻々と老い、死に近づいていく他ないのが人間を含めたすべての生命の宿命なのだと、人生経験の少ない青少年に知らしめるのもまた、長く生きた者の務めです。
青少年はあるいはそれら老醜をあざ笑うかもしれません。
あるいは気味悪がるかもしれません。
どちらにしても、青少年に何らかのインパクトは与えるでしょう。
そして死ぬ時。
ぴんぴんころりを望むのは万人がそうでしょうが、本来生きている者が死ぬというのは苦しいことです。
死の苦しみを若い家族や親族に見せつけて、人間が死ぬということの意味を教えるのも、死期が近づいた者の定めなのかもしれません。
若く見られたいなどとくだらぬことにうつつを抜かす暇があるなら、人生の真実に迫る努力をするほうがよほど有益でしょう。
年は隠せないものですから。