1990年代から2005年にかけて、評論家の大塚英志と小説家の笙野頼子との間で、くだらぬ論争が起きたことがありました。
大塚英志は、いわゆる純文学雑誌は出せば出すほど赤字になり、その赤字を漫画雑誌の黒字で補てんしており、文学作品には市場価値がない、というようなことを書き、それに対して笙野頼子が、純文学=芸術という観点から、芸術性の有無を無視して商品価値に力点を置くのは筋違い、という批判を行ったもので、これはだらだらと10年以上続きました。
そもそも両者は異なった立場で論を展開しており、ゆえに噛みあうはずもなく、笙野頼子のヒステリーと大塚英志の意地悪さが目立つ、醜いものでした。
挙句の果てに笙野頼子は「徹底抗戦!文士の森」なる書物を出版し、この論争は飯の種だったのだと教えてくれました。
嗤えます。
![]() | 徹底抗戦!文士の森 |
笙野 頼子 | |
河出書房新社 |
文学上の論争というのは、時折起こりますね。
例えば昭和30年代、純文学と中間小説の優劣を論争した事件や、井上靖の「蒼き狼」をめぐって大岡昇平が史実を歪める作品だとかみついた、歴史小説論争など。
いずれも空しいですねぇ。
なんだか柔道の金メダリストと相撲の横綱とレスリングのチャンピオンがガチンコで戦ったら誰が強いか、と言い合っているような虚しさを感じます。
それぞれルールが違うのに、どっちが優れているとか正しいとか言ったってねぇ。
実作者なら論争など黙殺し、作品を堂々と発表すれば良いものを。
「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と言ったのは、アンディ・ウォーホールでしたか。
多分実作者が取りうる態度はこの言葉に集約されるものと考えます。
![]() | ぼくの哲学 |
Andy Warhol,落石 八月月 | |
新潮社 |
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