私はかねてより近代詩や現代詩が苦手で、敬して遠ざけてきました。
なんとなれば、近現代詩の多くは、西洋の手法を真似ながら、彼我の言語の成り立ちの違いゆえ、違和感を感じるからです。
一般に、わが国の詩がまがりなりにも日本語として定着したのは萩原朔太郎以降だと言われています。
![]() | 萩原朔太郎詩集 (新潮文庫) |
河上 徹太郎 | |
新潮社 |
しかし私の印象では、萩原朔太郎の詩群ですら、和歌や俳句に比べ、日本語として無理があるように感じられるのです。
そんな中、比較的好んでいるのは日夏耿之介の詩群でしょうか。
![]() | 日夏耿之介詩集 (1953年) (新潮文庫〈第557〉) |
日夏 耿之介 | |
新潮社 |
日夏耿之介は、西洋風の詩的意匠と、日本語、とりわけ雅語及び漢語による文語調との接木細工による奇怪な詩的世界を追求したという意味で、類まれな言語感覚を有していたと言って良いでしょう。
それはおそらく、上田敏の「海潮音」に連なる、象徴派の系譜に連なるのでしょうが、ことはそう簡単ではありません。
![]() | 海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫) |
上田 敏 | |
新潮社 |
上田敏が日本語として小慣れた、七五調で西洋の詩を翻訳によって導入し、しかも日本人の感性に合うような訳を心掛けたのとは正反対に、日夏耿之介の詩は時にグロテスクなまでに、耽美的です。
短い詩を一つ紹介してみましょう。
昏黒(くらやみ)の空高きより 裸形の女性(おんな)墜ちきたる
緑髪(かみ)微風(そよかぜ)にみだれ
双手(もろて)は大地をゆびさす
劫初の古代(むかし)よりいままで 恒に墜ちゆくか
一瞬のわが幻覚(まぼろし)か
知らず 暁(あけ)の星どもは青ざめて
性急に嘲笑(あざわ)らふのみ
日夏耿之介の第一詩集「転身の頌」に見られる詩です。
グロテスクと言えばそうでしょうが、西洋流の詩を見事に日本語に乗せているように感じられます。
私は今朝書いたエリートとコスモポリタンという記事で、仏書漢籍、日本古典の教育を復活させるよう主張しました。
その昔ながらの教養の上に、西洋の教養を身に付ければ、日夏耿之介のごとき魅力的な詩を生む少年少女を発掘できるのではないでしょうか。