小雨がぱらついているようです。
気付けばすっかり秋も深まってきました。
そのせいか、世の無常をいつも以上に感じ、あの人は今、みたいな感じでネット・サーフィンをしてみました。
清水健太郎は覚醒剤や業務上過失致死などの罪で7回も有罪判決を受けながら、今も娑婆でライブをやったりVシネマに出たり。
これから会社を作って映画製作をやりたいそうです。
旺盛な人ですねぇ。
田代まさしは現在服役中ですが、同じ雑居房から出所したヤクザの組長が、誰も本人だと気付かぬほど痩せ衰えていたと証言しています。
海部俊樹元総理は現在引退し、大正琴協会の名誉職などを務めているとか。
変に二枚目だった民社党の大内啓吾は、現在83歳で存命だそうですが、一切メディアに出てきませんね。
銀座の老舗旅館で生まれ育った江戸っ子で、しかも二枚目だったことから、老醜をさらすのを潔しとしないのかもしれません。
しかし、往年の二枚目が堂々と老醜をさらし、老いるということの意味を若い者に教えるほうが、潔いように思います。
よく、臨終に際し、その人の人生が走馬灯のように蘇る、という話を耳にします。
走馬灯は回り灯篭とも呼ばれる、江戸時代の夏の風物で、要するに影絵が灯篭のまわりを回るという仕掛けのようですが、たいそう幻想的で美しかったようです。
今となっては廃れ、見たことがある人はごくわずかなのではないでしょうか。
私も見たことはありません。 こんな感じです。
今わの際に自分の人生が走馬灯のように蘇るのだとしたら、例えば80歳で臨終を迎えた者は、客観的には一瞬だとしても、本人の意識としては最後の瞬間に80年分の時間を要することになるのかもしれず、そうだとしたら死ぬのは苦しいでしょうねぇ。
40代半ばの私ですら、これまでの人生を詳細に繰り返すようなことは、気が遠くなるような大事業です。
また、走馬灯のように蘇った人生の最後の最後、臨終を迎えたのなら、再び走馬灯のように人生が繰り返されるのかもしれません。
そうなると生きている者には一瞬でも、死に行く者はその一瞬に同じ人生を意識の中で半永久的に何度でも繰り返すことになり、それはすでに地獄に落ちたのと同じようなものでしょうねぇ。
時間とは何か不明である以上、生きている私たちの一瞬と、あの世に向かう者の一瞬とが同じであるほうが不思議だと思います。
そしてまた、人は必ず死ぬのに、誰も死後どうなるのかは分かりません。
不明であるからこそ人は死を怖れ、あるいはこうあってほしい死後を信じ込んで自殺的なテロに手を染めたりできるのでしょう。
太古、人類の寿命は30年くらいであったと言われています。
栄養や衛生の状態が悪く、医学も薬も存在しなかった頃は、当然だろうと思います。
だからこそ人は15歳くらいから生殖に励み、30歳くらいで孫がいるという状態だったのだろうと想像します。
現代でも、アフリカの一部地域では平均寿命が40歳を切っているそうで、そうだとすると私はとうに死んでいても不思議ではありません。
また、お隣、韓国は他国由来の物を自国が起源だと主張したがる悪癖がありますが、あれなど切ないばかりに愚かしいことです。
文明が生まれてせいぜい5,000年。
起源というなら、ミトコンドリア・イブ。
16万年から20万年前にアフリカに存在したとされる人類共通の祖先です。
彼女も朝鮮半島出身でしょうか。
結局のところ、ビッグ・バン以前はどうなっていたのか、というところまで行ってしまいます。
もし宇宙が全体で巨大な一個の生命なのだとしたら、宇宙もまた悠久の時を過ごした後、臨終を迎え、走馬灯のように宇宙の来し方を振り返るのだとしたら、私たちが今生きている現在が、果たして進行中の現実なのか、宇宙が死の床で何度も繰り返している走馬灯の一瞬に過ぎないのか、根源的な不安に駆られてしまうのです。