超昏睡

思想・学問

 そろそろ臓器移植法が改定されてから丸一年になりますね。
 
 当時は脳死論議が盛んでしたが、一年たつと、メディアに取り上げられることもあまりありません。
 むしろ一年間でどのくらいドナーが増え、どの程度臓器移植で命を長らえた人がいるのか、検証結果を報道してほしいものです。

 1959年、フランスでモラレとグーロンが今日で言う脳死状態のことを、
超昏睡(coma depasse)と名づけました。当時、超昏睡は人の死、という認識はなかったようです。この状態が脳死(brain death)と呼ばれるようになったのは、1967年の世界初の心臓移植以降のことです。

 つまり超昏睡だと生きていることになるので、心臓を取り出せば、当然殺人罪に問われます。心臓移植を行うためには、その状態を脳死と呼び、死んでいるとみなす必要性があったというわけです。

 元来、人の死は、肺機能・心機能・脳機能の3つすべてが停止した状態を指すのが当然でした。
 ところが医学の進歩に伴い、臓器移植が可能になると、3つのうち2つが活動していても、脳機能が停止していれば、多分助からないだろうと見なして、助かるかもしれない人に、臓器を移すことで、2人死ぬところ、1人で済んだ、という医療を始めたわけですね。

 ところが2008年、米国の大統領生命倫理評議会が報告書を発表しました。その中で脳死を、臨床医学的には慢性疾患であって、人の死とはいえないという結論に達したため、
全脳不全(total brain failure)と言い換えて表現しています。

 約50年たって、超昏睡と呼んでいた時期と同じような結論に達したわけです。

 しかし、当の米国では臓器移植は盛んで、ヨーロッパでも広く行われています。わが国でも、遅ればせながら、昨年法律が改定されました。

 そうしてみると、一般に脳死と言われる状態が、死なのか、助かる見込みのない重症なのか、誰にも分からない、ということになりましょう。
 効率を考えれば、仮に死ではないとするなら、助かる見込みがない患者を生かしておくよりも、むしろそれを殺害し、元気に回復する見込みのある患者を救ったほうが良い、ということも理解できます。しかし、なんとも、もやもやした考え方です。

 例えば医学の進歩によって、脳死から回復するような治療法ができることはないのでしょうか。
 また、臓器移植以外に臓器不全に陥った患者を助ける方法は?

 おそらく、50年前から、世界の医学界は壮大な社会実験を行っているのだと思います。誰にも答えられない哲学的かつ倫理的問題には目をつぶり、今苦しんでいる患者を救うため、物言わぬ脳死者もしくは全脳不全患者には死んでいただく、という症例を積み重ね、経験則からこの問題の解決を図るしかない、ということだろうと思っています。

 でも私は、絶対にドナーになりたくありません。白とも黒ともつかない、灰色の状態で殺されるのはご免です。

 そうはいっても、もし私が臓器移植手術を受けなければ助からない状態になれば、活きがよく、しかも私にぴったり適合するドナーが現れることを痛切に願うのでしょうね。

 どこまでいっても私という人間は、おのれが可愛いのです。

以下の三冊は、いずれも脳死を考えるうえで、たいへんわかりやすく参考になります。
   ↓

脳死 (中公文庫)
  
 
 
立花 隆
中央公論社


脳死再論 (中公文庫)
立花 隆
中央公論社
脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)
小松 美彦
PHP研究所