今日の某新聞に、新保祐司なる文芸評論家にして某大学の教授が、戦後民主主義に始まり、ポスト・モダン、ニューアカデミズムなどを経て現在の新書ブームにいたる知の営みを軽薄と断じ、古典回帰を説いていました。
そのことに異議はないのですが、震災によって知のバベルの塔が崩壊し、軽薄な知は終わりを告げるかのような論を進めており、それはいかにもこじつけというか、強引というか、思わずお気は確か、とうなってしまいました。
震災によって学問やら知の営みやらが根本的にその意義を問われるということは無いと思うんですがねぇ。
なんでもかんでも震災に結びつけて論じたがるその態度こそが、先生おっしゃる軽薄な知ではないでしょうか。
古典回帰なんて100年も前から言い古された文学者のたわごと。
学者で飯を食っているのならともかく、圧倒的多数の新聞読者は好きなものを読めばよいし、読みたくなければ何も読まなければよろしい。
大学の講義でお説教垂れているみたいな軽薄な論、いかにも不愉快です。
現在もてはやされている文学や評論が500年、1000年と読み継がれる将来の古典足りうるのかなんて、現代を生きる私たちには誰にもわかりません。
今残っている古典は、たくさんあったであろう時代の作品群が塵あくたのように吹き飛ばされる中、鋼のような重さをもって、金のような輝きを放ったため、生き残ってきたもので、歳月の審判に勝ち抜いたこと一つをもって、名作であろうことが担保されます。
そして現在あふれている作品群の多くは歳月によって吹き飛ばされるでしょうが、ごくわずか、珠玉の輝きをもって生き残るものがあるでしょう。
歳月の審判を勝ち抜いた古典を読むというのは、一番効率が良いのですよねぇ。
当たりばっかりですから。
しかし序の口力士ばかりを見て、将来の大関横綱を探す喜びが、現代文学にはあるでしょう。
相撲と違うのは、存命中はその現代文学が本物かどうか、分からないことでしょうねぇ。
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