中西進先生の「辞世のことば」をぱらぱらとめくりました。
この新書は、二十年以上前から、甘い死の誘惑にとらわらたときに読んでいるものです。死の誘惑にとらわれたときに、死を目前にした人々の言葉に生きる勇気を与えられるなどと、なんという皮肉でしょう。
例えば、次のような歌。
「つひに行く道とはかねて聞しかど 昨日今日とは思はざりしを」(在原業平)。
稀代のプレイボーイも、平凡に死を迎えているところに、人間の死の軽さと尊厳が同時に見て取れます。おそらくこのような心境が、多くの人の真実に近いのではないでしょうか。
さらに、次のような詩。
「行列の行きつくはては餓鬼地獄」(萩原朔太郎)。
萩原朔太郎らしい不気味な感じと同時に、どこか滑稽味を感じます。もとより、いつ死ぬか知らぬのに、死ぬと思って辞世をよむのは、滑稽なことです。
自死や刑によるものなら知らず。
最後に、私が最も尊敬する俳人、与謝蕪村の句。
「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」
名句です。
与謝蕪村は、自身の死後、自身は白梅に明くる夜ばかりを過ごすというのです。極楽に咲くという蓮でもなく、日本人の好きな桜でもなく。
うなる以外にありません。
しかも、弟子によれば、与謝蕪村は本当に、この句を口にしてから、一切言葉を発せず、没したとのことです。
お見事。