迷言

文学

 人をポジティブかネガティブかに分ければ、私は間違いなく後者でしょう。

 大量の精神病薬を飲んでなんとかやり過ごしていますが、薬が無ければ、10年前のうつ病発症の時に退職しているか、悪くすれば自殺していたでしょう。
 うつ病は自殺率が極めて高い病気ですから。

 ほぼ完治した今も、その頃の思い癖みたいなものから抜け出すことが出来ず、考えは後退していくばかりです。

 よく、名言集というものがあります。

 大体において、明日は明るい日と書くだの、夢は諦めなければ叶うだの、大の大人から見れば人生の真実とは程遠い迷言のオンパレードです。
 そのような言葉に触れてポジティブな思考に入れるのは、ごく若いうちだけだと思います。
 なぜならそれらは、嘘だからです。

 下のような言葉を読んだことがあります。
 誰の言葉かは忘れましたが。

 死んでいる者は幸せだ、これからも生きていく人間よりも。
 死んでいる者より幸せなのは、生まれなかった者だ。

 西洋の学者が残した言葉だったように覚えていますが、うろ覚えです。

 太宰治の「人間失格」みたいですね。

 多くの、自分は成功したとか、勝ち組だとか思っている人には通じない言葉かもしれません。
 逆に、世間的には大成功をおさめた夏目漱石にはどこか憂鬱な感じが漂っていますし、太宰治に至っては、突き抜けすぎて笑っちゃうほどです。

 名言が名言足り得るのは、それを聞いたり読んだりする人の精神の在り様によって決まるものだと思います。

 病ゆえか、職業選択を誤ったと思っているゆえか、先の言葉は腹に落ちます。

 激しい戦闘が繰り広げられる戦場で、戦死した戦友の亡骸を見て、「早く楽になれて良かった」などと思うことはよくあった話だと聞きます。

 それを突き詰めると、生まれてこなかった者が幸せだ、ということになるのでしょう。
 これはしかし、なかなかに苛烈な言葉で、そもそも生まれなかった者はこの世に存在しないし、存在し得ることはないのですから、比喩的なものだと考えても、そのネガティブな力は群を抜いているのではないでしょうか。

 あまりにも辛い時、生まれてこなければ良かったとか、死んでしまいたいと思うことは、多くの人が経験しているのではないでしょうか。
 経験すればこそ、あまりにもネガティブな言葉に、感応するのだと思います。

 しかしそれは、心の奥深くに秘すべきことかもしれません。  
 ある程度の年齢を超えている者には、先のネガティブな発言こそ、概ね真実だということは、明々白々たることです。

 ではネガティブに塗りこめられた人生をどうすればよいのか、50年以上生きてきて、一向に分かりません。

 分からないことこそ真実だ、なんて、それっぽい名言もありそうですね。

 私は30代前半くらいまでは、いずれ小説で身を立てる日がくるだろうと思って、その日その日を愉快に過ごしていました。
 30代後半に精神病を患うわけですが、おそらく罹患しなくても、もう望みが叶うことはないだろうと諦めの境地に至ったであろうと思います。

 先が見えるというやつです。

 先が見えない、もしくはおのれの才能の無さを見極められないとしたら、とんだお馬鹿さんです。 

 きっと定年退職を迎えた時、自分の職業人としての人生を嘆き、こんはずではなかった、と思うのではないでしょうか。
 その悔恨の念を抱きつつ、余生を生きざるを得ないのが、かつて夢追い人であった凡人のなれの果てのような気がします。

 我が人生に悔いはなしなんて、私には言えません。
 もう、悔いだらけ。

 私ももう少しポジティブな思考を身に付けたいものですが、持って生まれた性分なのでしょう。

 少々の酒、少々の酔いしか、悔いを紛らわせる方法を思いつきません。