過激なものへの憧憬

思想・学問

   10月も半ばを過ぎ、すっかり秋めいてきました。
 今年は晴れる日が少なくて、なんだか嫌になります。

 10月というと、10月事件という、はるか昔のクーデター未遂事件を思い起こします。
 錦旗革命事件とも言われ、昭和6年、満州事変の直後に起きた、陸軍の青年将校らによる秘密結社、桜会が画策したものです。

 海軍の一部とも結託し、北一輝や大川周明ら民間右翼の大物、大本教などの宗教団体をも巻き込んだ大規模な計画で、時の総理大臣をはじめとして、閣僚らをことごとく暗殺もしくは捕縛し、超国家主義的な軍事独裁政権を目指したものです。

 計画は事前に露見し、首謀者たちは捉えられますが、満州に左遷されるなどの処遇を受けただけで、特段処罰されませんでした。

 このことは、後の二.二六事件などの重大なクーデターに影響を及ぼしたものと思います。

 どうせ大した罰は受けないだろう、みたいな。

 ところが、 二.二六事件の首謀者たちは、先帝陛下の逆鱗に触れ、弁護士なし、一審のみ、という形ばかりの裁判を受けて処刑されるに至りました。


 私は国家主義者でも共産主義者でもありませんが、なぜか過激な思想や宗教に魅せられ、悪事に突き進んでいく者達の姿に魅かれます。

 近くはオウム真理教事件、さらには連合赤軍事件。

 外国ではナチなんかも、やったことはともかく、そのファッション性は単純に格好良いと思います。

 過激な思想に囚われ、悪行に突き進んでいく姿は、人間の最も純粋な精神性が現れているように感じるのです。

 それは哀れを誘うような愚かさを身にまとっているからこそ、いっそ至純に見えるということのように思います。


 オウムの連中なんか人間じゃない、と思うと同時に、あれこそ人間の本性である、とも思います。

 人間の本性をむき出しにして、他を省みず、おのれ一人が正しいとばかりに蛮行に走ることは、決してあってはなりません。

 しかし世の中、あってはならぬことが起きるのが一面の真実で、その真実を見せつけられた時、人は嫌悪感と同時に、幾ばくかの魅力を感じるのでしょう。

 酒鬼薔薇聖斗を神のように崇める青少年がいると聞いたことがあります。
 私は性犯罪者には魅力を感じませんが、極端な事件を起こした犯人に魅力を感じるという精神性は、分からなくもありません。

 かつて三島由紀夫は、

 わき目もふらず破滅に向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき見をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです。

 と述べたことがあります。

 誤解されがちな発言ですが、私には腹に落ちます。

 うろ覚えですが、何かの小説で、自滅を美とせず、と書いたのは司馬遼太郎でしたか。
 しかしそう書かなければならないほど、人は破滅に向かう姿に美を感じる生き物だとも言えます。


 今もどこかで、極右であったり極左であったり、あるいは過激な宗教団体などが、悪の計画を立てているかもしれません。
 私はそれに心酔しているような顔を装って、会合に参加してみたい、という誘惑に駆られます。

 もちろん、いざ事を起こそうとしたならば、私は迷わず通報するでしょう。
 その姿がいくら美しくても、やってしまったら犠牲者が出て、巨大な悲劇が生まれること必定だからです。

 過激さへの憧憬を持ちながら、どこまでも小市民的な態度しか取れないとは、いかにも木端役人らしいとしか言い様がありません。

 尊敬する石川淳先生が、「至福千年」等の小説群で描き出したように、せめて私もまた、虚構の世界で、おのれが正しいと信じ、蛮行に突き進む哀れな人間の姿を創り出してみたい、と思います。

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)
石川 淳
岩波書店

 今の私にはそんな余力はありませんが、例えば定年退職して時間が出来たなら。

 そしてそれは、誰にも読まれることがなくても構いません。
 私一人を慰める、あるいは鼓舞する物語であれば十分だと思っています。