首都圏の、ここ数日の雨とそれに伴う気温の低さは少々異常に感じられます。
今週いっぱいはこんな感じなんだとか。
来週、8月も下旬にいたって暑さがぶり返したところで、それはほとんど残暑と言っても良いでしょう。
今年は冷夏なんていうものじゃなく、梅雨が明けたら秋がきた、みたいな感じです。
昔だったら雨乞いの逆、なんて言うのか知りませんが、気象の神様の魂を鎮める儀式でも執り行ったことでしょう。
今はそんなことはしませんが。
しかし、合理的精神というか、科学的精神というか、そういうものはこの世を生きる動物の一種である人間にとって、万能ではないことは明らかです。
科学や理屈では判明していないことはあまた在るわけですから。
むしろ、祈祷、あるいは呪いと言った、現在否定されている精神的な行動、魔術的思考とも言うべきものも、人間には必要なのだろうと思います。
それは経験的に。
そして例えば、慰霊祭やら葬式やら、一見無駄に思えるようなことも、現代に脈々と受け継がれ、むしろそれは大切な行為だとみなされています。
また、例え、精神病だというのが本当だとしても、本人や家族が悪魔憑きとか狐憑きだと信じていれば、エクソシズムやお祓いも有効でしょう。
そういった前近代においては当然だった祈祷や呪いと言った行為を、間違った考え、に基づくものだと捉えずに、先人の知恵と考えたほうが、私には納得がいきます。
私は超自然的な現象、幽霊やら、念力やらといったものに対して、ニュートラルな考えを持っています。
それらが存在するともしないとも言えないと思います。
少なくともそれらを人間が観念上の存在としてであれ、生み出したのであれば、それは観念上は存在することになります。
しかし、現実にそれらが存在することが科学的に証明されたのなら、それは超自然現象ではなく、当然にこの世に存在する自然現象ということになるでしょう。
そうなると都合の悪いことが起こります。
文学の祖というべき神話、また、祖を正統的に受け継ぐ耽美的で幻想的な文学作品、お伽噺、SFなど、人間の想像力が生み出した素敵な物語群が、陳腐なものになってしまうでしょう。
そうなったらつまらないでしょうねぇ。
不思議は不思議のままで、奇妙なお話は奇妙なままで、人間の想像上にだけ存在してくれたほうが、はるかに魅力的だと思います。
変に涼しい雨の8月、窓から外を眺めながら、深いもの思いに沈むお昼休みです。