隠れキリシタン

文学

 先日、テレビで爆笑問題が隠れキリシタンの末裔を追った番組を見ました。

 明治維新後、キリスト教禁教が解かれてから、隠れキリシタンは普通に教会に通うキリスト教徒になったのだと思っていましたが、驚いたことに、今もなお、昔ながらの信仰を保ち続けている人々が存在するそうです。

 さすがに隠れる必要はありませんが、隠れキリシタンが信仰したというマリア像、観音様です。
 また、墓石の上には小石がいくつも置いてあり、拝むときにその小石を十字の形に並べ替え、拝んだ後、またバラバラにすることで、キリシタンの墓だということが分からないようにしたそうです。

 隠れキリシタンであることが発覚すれば、命を落としかねない状態で、よくも信仰を捨てなかったものだと思います。

 それらの行為から感じられるのは、隠れキリシタンたちの切ないばかりの願望。
 苦しい生活が続く今生を、信仰を貫いて生きとおしたなら、天国に行き、永遠の平安を得られるという、普通の仏教徒が聞いたら詐欺かと思われるような教義を、ひたすらに信じることで、この世の苦しみに耐えようとしたのですねぇ。

 よほど毎日が辛かったのでしょう。

 仏教にも浄土信仰というのがあり、キリスト教の教義と通じるところがありますが、隠れキリシタンの苛烈さは浄土者とは比較にならないでしょうね。

 石川淳の小説に、「至福千年」という作品があります。
 江戸末期を舞台に千年王国を夢見る隠れキリシタンが暗躍する、スリリングな小説です。

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)
石川 淳
岩波書店

 そこに登場する隠れキリシタンたちは、千年王国実現のためには悪事をも辞さない人々で、伝奇小説としては抜群に面白い作品ですが、実際の隠れキリシタンとは似て非なるものなのだろうなと、テレビ番組を見て感じたしだいです。

 私たち現代日本人のほとんどは、信仰を持っていないものと思われます。
 信仰がなくても生きられる幸せな社会なのかもしれません。

 しかし人間は、宗教であれ何であれ、人智を超えた存在を本能的に渇望するものであろうと思います。
 あやしげな新興宗教が雨後の筍のごとく生まれる所以でしょうねぇ。

 仏教にしろキリスト教にしろ、既成の宗教の奮起を促したいところです。

 既成の宗教は、時の審判に耐えて生き残った力強さがあるわけですから。


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