難しい

思想・学問

 某団体から、高額の図書が送られてきました。振込用紙と一緒に。団体は、アイヌを騙っていますが、その図書の値段、いきなり送りつけてくる手口、似非アイヌとみえます。
 以前、同和の団体からも、そういうことがありました。 
 毅然として送り返すしかありません。 
 必要ないものは、要らないし、買わない。  

 かつて被差別部落というものが存在し、多くの人が差別に苦しんだことは歴史的事実です。しかしそれを悪用して一儲けしようというのは、ホームレスにアパートをあてがって生活保護を受給させ、そのほとんどをピンハネしてしまうのにも似ています。  本当に差別に苦しみ、それをなくそうとしている団体か、金儲けをしようとしている団体かを見分けるのは、不当に高い金額を要求してくるかどうか、くらいしか方法がありません。

  いわゆる差別語とかあって、現代最大のタブーになっていますね。  

  江戸時代には、弾左衛門を名乗る一族が、代々、被差別民を支配してきました。当然、弾左衛門も身分的には被差別民です。しかし被差別民が独占していた皮革産業や歌舞伎などの興行を一手に引き受け、江戸下町に広大な屋敷を構え、格式一万石、石高五万石と称せられた、と言います。しかもその支配権は、関八州、伊豆諸島に及び、幕府からお墨付きを与えられていたそうです。
  もちろん、多くの被差別民は、赤貧洗うがごとしであったことでしょう。  

  被差別民といっても、多様です。

  多様性を認めることが、民主主義の根幹だとすれば、今のように、ある特定の言葉を、それが古くからの日本語であるにも関わらず、使い方を問わず、問答無用で「差別語」と称して使用できない、というのは不幸なことです。
  歴史的事実はオープンに語られるべきです。タブー視して言葉を制限するなど、そっちの方が差別的です。  

  かつて筒井康隆が、差別語辞典を作ったら、広辞苑より厚くなってしまう、と嘆いていました。さもありなん。あれとこれを区別するのが言葉です。そこに人間がどういう意識を持つかによって、どんな言葉でも差別的な意味を持ちます。 
  例えば、東大にどうしても行きたくて、努力したけれど入学できず、早稲田に進んだ場合、早稲田卒と言われるだけで、差別されたと受け取るでしょうし、受かるはずがないと思いながら早稲田に受かってしまった場合、逆に早稲田卒を誇りに思うでしょう。

  どんな言葉であっても、TPOを弁えなければ、差別的表現になってしまいます。  

  言葉というものは本来、差別的なものです。  

  私が物した小さな小説集を作る際も、何度か編集者から、差別語だから直してくれ、と言われました。情けなくも編集者の言うがままに修正しましたが、内心忸怩たる思いでした。  

  ああ、難しい。