今日は二十四節季の霜降(そうこう)ですね。
「暦便覧」では、露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也、と説明しています。
このブログで何度も指摘しているように、旧暦とずれているため、最近随分秋が深まってきたとは言うものの、霜が降りるほど寒くはありません。
10月は八百万の神様のうち、留守神と呼ばれる留守番を除き、ほとんどが出雲に集まって会議を開くため、神無月とも呼ばれます。
逆に出雲では、神在月と呼ぶとか。
道理ですねぇ。
そう思うと天照大神やその食事の世話をする豊受大神を祀る伊勢神宮以上に、出雲大社は古くからこの国の神々の古里ということが言えるのでしょう。
霜降を迎えて思うのは、最近わが国の学者が発表した地球温暖化に関する論文。
それによると、2年後くらいから、地球は寒冷化に向かうだろう、とのことでした。
なんでも最近の地球は35年ごとに温暖化と寒冷化を繰り返しており、グリーンランド付近の海水の水温から調べられるそうです。
二酸化炭素の放出が地球温暖化を促している、という現在の常識を、私はかねてから胡散臭いと思っていました。
地球は全凍結していた時代もあり、灼熱地獄だった時代もあります。
地球の大きなバイオリズムを前にして、人間ごとき小さな生き物の活動が地球の気温にさほどの影響をもたらすはずがないと、直感していたのです。
もちろん、寒冷化にせよ温暖化にせよ、人間の存在そのものを脅かすほどのものではありません。
私は全然知りませんでしたが、1960年代には、地球寒冷化に関する書物が多数出版され、人々はそれに怯えたそうです。
もちろん、だからと言って中国のようにモクモクと煙を吐いたり排ガスを吐く車を走り回らせたりすることは、気温とは別に、大気汚染をもたらすので、早急に手を打つ必要があるでしょう。
霜降とともに訪れようとしている冬を前にして、私は地球全体、さらには宇宙全体のダイナミックな活動を想い、それがもたらす人類への災いや恩恵を怖れながら、私たち人類もまた、現世を構成する小さな物体に過ぎないことを思い知らされます。
人間という浅はかな生き物に出来ることは限られており、ただ自然の猛威に怯えながら、精いっぱい生きるほかありません。
そして人智を超えた災害に際しては、静かに運命に従う以外ない、私を含めた全人類に限りない情愛を覚えるのです。