今日はじつに久しぶりに晴れ間に恵まれました。
朝は7時に起きて朝湯につかり、めかぶ飯とソーセージの朝飯を食い、溜まった洗濯物を洗濯機に放り込み、洗濯。
昔は一枚一枚洗濯板で洗っていたのでしょうから、ずいぶん楽になったものです。
洗濯をすませ、ベランダに干してから千葉スバルへと向かいました。
自動車保険の更新のためです。
スバルの営業所までは車で15分ほど。
帰りにイタリアンに寄り、イカ墨スパゲティで昼食。
午後は消防設備の点検のため、自宅に足止めをくらいました。
そこで、読書を楽しみました。
吉田修一最初期の短編集、「最後の息子」を読みました。
![]() | 最後の息子 (文春文庫) |
吉田 修一 | |
文藝春秋 |
いずれも雑誌「文學界」に掲載された、「最後の息子」と「破片」と「Water」が収録されています。
いずれも10代後半から20代前半の青少年を主人公にした作品で、青春小説の部類に入ると思われます。
しかし、宣伝文句にあるような、爽快感200%、とってもキュートな青春小説!、というようなものではありません。
いずれの作品も、どこか暗い影を残します。
それもそのはず、本来的に青春とは暗さを伴うものだからです。
「最後の息子」は、オカマバーのママと同棲する長崎出身の若者のお話。
オカマの閻魔ちゃんと主人公の生活が、撮影したビデオを紹介するという変わった形式で綴られます。
途中、ゲイのハッテン場の公園で、ホモ狩りの少年たちに襲われて殺害された仲間のゲイボーイや、オカマならではの苦しみなどが、淡々とした筆致で語られます。
この作家、人間の危うさというか、影というか、そういうものを書かせたら天下一品です。
「破片」は長崎にお盆のために帰郷した青年とその弟、父親の物語。
ここでも、幼い頃台風で母を亡くした暗い影がつきまといます。
「Water」は長崎の高校の水泳部を舞台にしています。
これがもっとも青春小説らしいかもしれません。
水泳に打ち込みながら性欲や淡い恋、少年愛めいたものが綴られています。
3編に共通しているのは、いずれも長崎出身の男の物語だということ。
作者が長崎出身であることから、自分自身の経験に基づいているものと推察します。
私はこの短編集に、青春の暗さを強く感じました。
しかしそれでいて、「Water」で主人公が中年のバス運転手にかけられる、覚えておけ、坊主たちは今、将来戻りたくなる場所におるとぞ、という、哀愁漂うフレーズに惹かれました。
言われた少年は、何を言われているか理解できないわけですが、人生も後半に差し掛かった中年男には、涙なしには読めない一文です。
もちろん、高校時代に戻りたいなどとは思いません。
もう一度しんどい30年をやり直すなんてご免です。
しかし、もし、30年前に戻れたなら、もっと青春時代を楽しめたかもしれない、という思いを抱くことがあります。
当時の私は耽美的な文学や映画、美術などに耽溺し、時にはこっそり自室で酒に酔ったりして、世界をたった独りで生きているような気分でした。
家族も友人も当然いたし、誰にでもある色恋沙汰めいたこともなくはありませんでしたが、それでも、世界にたった独り、 という気分が私を支配していたことは確かです。
やり直しても結局同じことなのかもしれませんが、もう少し、健全な青春時代を送っていたなら、この腐った私の魂が、腐るのではなしに、熟成したかもしれません。
この小説集は、私を過去へと引きずり込み、深い憂愁へと誘う、危険な力を持ったものだったようです。