靴を脱ぐ

社会・政治

 近頃、多様性ということがよく語られます。
 人間というのはとても多様なものだと。

 また、格差ということも言われます。

 経済的な面、学力などの面、様々な格差があって、容易には変化できないものです。

 それに、看過できない差別。

 多様性とか格差、差別とかいうのは、違いを強調した物言いです。

 一方で、ある社会、民族に強く根付いている風俗、習慣もあります。
 宗教だったり道徳律だったり。

 それらを文化と呼ぶのだと思います。

 我が国では、宗教と言えば仏教と神道のちゃんぽん。

 ちゃんぽんと言えども、多くの日本人は神社に行けば二礼二拍手一礼の作法を守り、寺に行けば手を合わせます。

 これらは、違いではなく、文化の同質性を表しています。

 もっと分かりやすい例で言えば、我が国では家に上がるとき、靴を脱ぐということ。

 かつては役場や会社でも靴を脱いで執務していたと言いますし、百貨店でも初期は靴を脱いでいたそうです。
 今でも、病院などでは靴を脱ぐことが多いですね。

 現在では職場では大方靴を履いていますし、百貨店もそうです。

 しかし、住まいでは、圧倒的多数の日本人が、靴を脱いで生活していると思います。
 家に土足で上がるということは、日本人の感覚で言えば、とても不潔で、気持ちの悪いことです。

 太平洋の島国など、常夏の国では、靴を脱ぐもしくは履かないということが見られますが、そこそこ寒い我が国で靴を脱ぐというのは、欧米人からは奇妙に見えるようですね。

 靴を脱ぐという行為、また脱がなければ気持ち悪いという感覚、これは文化による同質性という縛りだと思われます。

 お金持ちも貧乏人も、ゲイもストレートも、右翼も左翼も、日本人は靴を脱いで家に上がります。

 文化の同質性ということは、侮れない強い力をもって、私たちを縛っています。
 あまりに強いので、日本にいるかぎり、意識することすらありません。

 しかし私は、同質性のぶつかり合いが、多様性を呼び、それはとてつもなく大きな力を持ち、人々を新たに律するのだと思います。

 であるならば、人々はそれぞれの社会や民族が持つ同質性を重視し、守らなければなりません。
 そうでなければ、文化の多様性の一角を担うことは出来ず、文化的に滅んでしまうでしょう。
 
自国や民族、さらには自分自身に強い誇りを持って、自国の同質性を守ってこそ、国際化に繋がると思います。


 かつて石原慎太郎は、「真にNationalなものしか、Internationalには成り得ない」と喝破しました。
 慧眼だと思います。

 我ら、靴を脱ぐ民族だと、高らかに宣言いたしましょう。