先般、60代の両親と30代の息子が自宅アパートで餓死していた事が発見されたのは、大きなニュースになりました。
飽食の国、日本では、多くの人々が過剰な量の食事を摂取しては体重増加に悩み、フィットネスなどで進まない自転車をこいだりして自己満足に浸っています。
それが、餓死。
アパートには食料が全く無く、現金も数円しか無かったというから、徐々に衰え、死に向かっていくその精神状態は凄絶なものであったろうと推測します。
なぜ生活保護を申請しなかったのか、とか、ホーム・レス向けの炊き出しに行けばよかったのに、とか、思うところはありますが、死者を鞭打つようなことは止めましょう。
人様の世話にはなりたくない、という彼らなりの矜持があったのでしょう。
日本でもわずかながら、毎年餓死者が出ています。
ネグレストや虐待の結果、という案件もありますが、数が多いのは50代男性だそうです。
昭和56年以降、餓死者の統計をとっているようですが、バブル崩壊までは毎年15人前後だったのが、バブル崩壊後、一気に80人前後まで増え、その後30人程度まで落ちましたが、高止まりしているようです。
50代の男性が多いというのは、そのくらいの年齢なら仕事があるだろう、とか、男は自立していなければいけない、とかいう無言の圧力から、仕事が見つからなくても生活保護などの社会資源に頼れない心性を持っているからではないか、と識者は分析していました。
餓死というのは、およそ考え付く死に方のなかで、最も苦痛が大きいものと想像します。
しかもスーパーやコンビニに行けば食料はあふれ、盗みを働けば食料にありつけ、仮に窃盗で捕まったとしても、拘置所や刑務所ではカロリー計算がなされた健康な食事を提供してもらえるところ、あえてそれをせず、座して死を待つわけですから。
人間飢えれば恥も外聞もなく生きるためになんでもするものなのかと思っていましたが、必ずしもそうではないようですね。
しかし、そうであっても、生き死にが関わる状況になったら、社会資源を活用すべく、動いてほしいと思います。
そうでなければ、何のためのセーフティ・ネットかと思います。
行政は、国民一人一人の経済状況を子細に把握できませんし、また、個人情報保護の観点からも、してはなりません。
行政が困っている人を探し出して、無理やりにでも飯を食わせるということは、絶対にしません。
困窮しているのなら、自ら声を挙げなければなりません。
声を挙げさえすれば、行政は煩雑な手続きを親切丁寧に指導してくれます。
運悪く困窮し、飢えることになったとて、恥じることはありません。
そのために税金を投じてセイフティ・ネットが張り巡らされているのです。
もちろん、まずは自助努力でどうにかすべきですが、行き詰った時には、それなりの生きる方法があることを知っておいてほしいと思います。
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