死んだらどこへ行くんだろうという素朴な疑問は、誰しも幼い頃持っていたのではないでしょうか。
それが成長するにつれ、正解がない問いだと知り、問うことそのものを止めてしまいます。
分からないことは考えないのが手っ取り早い逃げ道ですから。
縄文前期、広場があってその周りに竪穴式住居が建てられていたようですが、広場には、墓地がありました。
死してなお、死者たちは生者たちと同じ空間にとどまり、一緒に時を過ごしていたのですね。
縄文後期になると、お墓は集落の外に作られるようになり、死者と生者は別の場所で、それぞれ過ごすことになりました。
しかし日本人は、魂の不滅を信じていたようです。
翼なす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
「万葉集」にみられる山上憶良の歌です。
有馬皇子の魂は鳥となって羽ばたいていることを人は知らないが、結びの松は知っているだろう、というような意かと思います。
旗の 小幡の上を 通ふとは 目には見れども 直にあはぬかも
「万葉集」の倭姫王が夫であった天智天皇をしのんで詠んだ歌です。
天智天皇が小幡の上を行き交う姿を詠んだ哀切なものです。
この時代、死者は樹木のまわりにいるようです。
しかしこの当時、死者を神として祀るということはなされていないようです。
平安時代になると、菅原道真など、政治的敗者が祟りをなすことを怖れ、その魂を鎮めようとして、御霊信仰が流行りました。
時はくだって明治維新以降、国家のために命を落とした軍人や兵隊は靖国神社に祀られて神になることになりました。
これは戦病死していれば誰でも彼でも神になるということで、御霊信仰のような、特別な人間だけが祟り神になる、という物語とはずいぶん違います。
地獄や極楽を説く仏教とは大きく異なり、天皇のために戦って命を落としたなら、八百万の神々の末席に座れるというのですから、ご大層な話です。
日本人は仏教的死生観を受け入れながらも、死後の魂の在り様を考えてきました。
そして今でも、多くの日本人は死を完全なる消滅とは考えず、漠然とではありますが、死後の存在を予感しているのではないでしょうか。
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