11人

社会・政治

 2009年に米国オハイオ州で起きた11人の女性を強姦・殺害した事件の犯人、アンソニー・ソーウェルに死刑判決が出たそうですね。
 彼には強姦の前科があり、強姦でしか性的満足を得られなかったようです。
 驚くのは、地元クリーブラント市長の姪が長年犯人と事実婚状態にあったにも関わらず殺人に気付かなかったことと、姪には手を下さなかったこと。
 運がよいとしか言いようがありません。
 市長いわく、姪は犠牲者11人と同じ特徴を持っていた、とか。

 これだけの犯罪を犯せば、裁判所は、最高刑が死刑の州では、死刑を選択せざるを得ませんが、死刑というのはなんとも虚しいものです。

 それによって遺族の悲しみが癒えるわけもなく、憎しみの行き所を失います。

 死という事態が全人類にとって未知であると同時に、全人類は生れ落ちた瞬間から死刑宣告を受けたと同然の、避けられないこと。
 それを早めることが刑罰になるというのは、人は死を恐怖しているはずだ、という前提に立って、犯罪者に恐怖と苦痛を与えることを目的としているからでしょう。

 しかし、わが国では毎年3万人もの自殺者が出ますし、宅間守のように早期の死刑執行を求めて控訴せず、地方裁判所の死刑判決を受け入れ、実際に異例の早さで処刑された者もいます。
 これなどは、犯人の希望をかなえてやったようなものです。

 死という事態をどう受け止めるかによって、死刑の持つ意味が、死刑囚によってあまりにも異なります。
 私はどんな犯罪者であっても、死刑にすべきではないと考えています。
 なぜなら、死がなんだかわからないからです。

 もしかしたら、閻魔様の気まぐれか凡ミスで極楽に行き、よろしくやっているかもしれませんし。
 

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