このところ精神科の診察は3週間に一度でしたが、前回薬を減らしたことから、今日は2週間ぶりの診察となりました。
結果として、薬を減らしたとはいうものの、特段精神症状に変化はなく、相変わらず、自覚的には精神症状を感じていないことを訴えました。
精神科医は、それをひとまず褒めながらも、減薬は今後もゆっくりと行う方針を変えず、とりあえず今の薬のまま、診察はこれでまどおり三週間に一度ということになりました。
私としては、抗うつ薬はもう必要ないのではないかと思っています。
抗躁剤は生涯飲み続けなければならないのは分かりますし、頓服の抗不安薬は常に持ち歩いていないと不安なので、それは構いませんが、抗躁剤を飲みながら抗うつ薬も飲み続けるのは奇妙な感じがします。
抗うつ薬は精神の落ち込みを抑える薬。
抗躁剤は精神の高揚を抑える薬。
これを両方飲み続けるのは、なんだか奇妙です。
精神科医は、抗うつ薬には心を落ち着ける作用があるので、有効な処方であると言います。
私は医師の言いつけ通り、きちんと薬を飲んでいますが、納得づくというわけではありません。
それにしても精神病というもの、厄介なものです。
私は、今振り返ってみて、うつが激しい時も、躁が激しい時も、よく覚えていません。
だからこそ病気なのかもしれませんが。
ここ三年以上、私はへヴィな仕事を引き受け、それによって精神がやられたということはありません。
しかし、職場の人々から見れば、私は相も変わらず爆弾を抱えた変なやつでしかありえません。
それは一種の差別ですが、私自身が精神病差別にさらされ続けて思うのは、この世から差別が無くなるということは未来永劫あり得ないということ。
私のような精神病差別に限らず、男女差別、民族差別、宗教差別また、性的嗜好による差別。
人というのは本来的に多様なもので、自分もしくは多数者に理解できないものを差別するということは、そっくりそのまま自分に帰ってきます。
つまり、マジョリティがマイノリティを差別するのと同様、マイノリティはマジョリティを理解できず、結果としてマイノリティによるマジョリティ差別が起こるということです。
それはひとえに、自分を中心に考えることから起きること。
私はかねてから、人間はすべからず傲慢なほどの自信を持って、誇り高く生きることを称揚してきました。
それは、何も自分大事で生きよということではなく、おのれ独り大事にできす、おのれの生き方に誇りを持てないような者に、多様な他人を認めることなどできようはずもないと思うからです。
おのれがこの世で最も大切な存在だと認識できれば、他人もまた、それぞれに大切な人間だということを知り、おのれの価値観とは相容れぬ他人を尊重することができると思うのです。
したがって人間は、すべからく大傲慢で生きるべきです。
大傲慢と大傲慢が社会を形成したとき、初めてくだらぬ差別は失せ、大傲慢同士が互いを認め合う社会が生まれると思うのです。
だから私は、自己卑下する人が嫌いです。
この世でたった独りのおのれ一人を尊重できなくて、どうして他人を尊重することができるでしょう?
私は常に、大傲慢で生き続けたいと思っているのです。
そんなことを夢想しながら、それでもやっぱり差別は半永久的に続くだろうと思っています。
人はどういうわけか、あいつとこいつを分けて、あいつは良くてこいつは悪いと思い込む、悪い趣味を根源的に持っているようです。
それは悲しいことですが、人間社会の冷厳な事実。
人の内心を支配することはできませんから、せめては建前だけは、差別は許されないのだとしか言えない空気というか、社会を作るべきでしょう。
この世で最も大切なのは、本音ではなく、建前なのですから。