9月11日

社会・政治

    今日は9月11日。
 現代社会を生きる者にとって、忘れられない日です。

 2001年のこの日、悪夢の同時多発テロが起きました。

 あの日、私は遅い夏休み中で、同居人が山寺に行きたいというので、山形旅行に行き、ちょうど帰った日でした。

 東北はひどい台風で、山形新幹線が止まってしまい、山形からバスで仙台に向かい、仙台から東北新幹線に乗りました。

 ひどく疲れてしまい、夜9時頃には、一人、床に着いたのですが、テレビを見ていた同居人から大変なことが起きていると、たたき起こされたのを思い出します。

 惨劇の映像を見た時は、疲れも眠気も吹き飛びました。

 旅客機が2機続けて高層ビルに突っ込むなんてあり得ないし、その後ビルが倒壊する映像も衝撃的でした。

 映像は繰り返し流されましたから、多くの人の目に焼き付いたのではないでしょうか。

 あれから、世界は変わりました。
 国と国との戦争から、テロとの長い長い戦いが始まり、それは今も続いています。
 いつ終わるのか、見当が付きません。
 あるいは終わらないのかも。
 
 それに先んじて、わが国ではオウム事件が起きており、死刑囚はすべて処刑されましたが、世界がテロとの戦いに突き進む露払いのような役割を、結果的に彼らは演じてしまったのかもしれません。

 米国では銃の乱射事件が途絶えることがありません。

 国家間の戦争と違い、利害を度外視しておのれの思想信条、もしくは欲望のために行う虐殺は、歯止めが効きません。

 殺し合いが愚かなことだと口を酸っぱくして説いたところで、頭が凝り固まったテロリストの耳には届かないことでしょう。
 また、テロリストを放っておくことは、国家として許されざる不作為になることから、国家もまた、戦いを続けざるを得ません。

 永遠のループにはまってしまっているかの如くです。

 私はただ、それら凄惨なニュースに接して、瞑目することしか出来ません。

 私には何も出来ないし、究極のところ、米国大統領だって、根本的解決の方法など知り得ないでしょう。
 いくらテロ組織を壊滅に追いやったところで、雨後の筍のごとく、奴らは生まれるのですから。

 このような状況の中、私たちは生きていかなければなりません。

 戦いの無い世など、所詮は絵に描いた餅なのでしょうか。

 あぁ、はれ。