4年

その他

 今日は4年前のことにふれないわけにはいきますまい。
 言わずと知れた、東日本大震災です。

 その悲惨さやその後の復興などについては、多くのメディアが報道していますので、ごく私的な思い出を述べたいと思います。

 あの時、私は復職してからそろそろ1年が経とうという頃で、千葉県に立地する機関で比較的軽い仕事をしていました。

 午後3時前でしょうか、長く大きな揺れがあり、キャビネットのファイルや書類が大量に落ち、職場の庭に避難しました。
 40分後くらいには帰宅命令が出ましたが、最寄りの私鉄もJRも完全にストップ。
 車通勤の者が同方向の電車通勤の者を同乗させて帰宅ということになりました。

 職場に宿泊する者も少なくありませんでしたね。

 私は車通勤だったため、四人を乗せて帰宅の途につきました。
 普段であれば30分くらいで帰れるはずのところ、大渋滞が発生して6時間くらいかかりました。 

 トイレを借りようと夜8時頃コンビニに寄ったら、見事に商品が売り切れており、日頃万全に思えた流通も呆気ないものだと思いました。

 帰宅してテレビをつけ、初めて大津波が発生して大変な惨事になっていることを知りました。
 あまりのことに、私は感情をショットダウンしてしまったらしく、何も感じませんでした。
 フィクションの世界の出来事としか思えなかったのです。 

 翌日出勤しましたが、電車通勤の者がほぼ全員来られなかったため、出勤したのは4割ほど。
 職場に宿泊した者と、車通勤の者だけです。
 その後毎日幹部が鳩首会談して今後の対応を検討していました。

 安全確保と節電のため臨時休業みたいな状況になりましたっけ。 

 一段落して、職場では危機管理マニュアルの大幅な見直しが始まりました。
 当然でしょうね。 

 千葉県は東北に比べれば大した被害がなかったとはいえ、幕張ベイタウンは液状化が激しく、また、海岸の旭市などでは死者も出ています。 

 その後原発事故までもが発生し、繰り返しテレビなどで被害の様子が報道されたことはご存知のとおりです。

 あの時、民主党政権だったのは痛恨事です。
 名前を口にするのも不愉快な当時の総理大臣は右往左往し、現場の責任者を怒鳴り散らしたり。
 見苦しいリーダーでしたね。

 原発の後遺症をはじめとして、仮設住宅の問題や被災者の心のケア、経済的問題など、4年経っても解決されない問題があまた存在しています。

 これらを一気に片付ける魔法は当然ありません。

 地道に、少しづつ前進していくほかはなく、それは気が遠くなるような難事業ではありますが、困難に遭遇した先人たちがそうしてきたように、現代人もまた、一歩一歩進んでいくしかありません。

 私には何の力もありません。

 ボランティアに行く余裕も、寄附すべきお金の余力も。 

 ただ一つ、津波などの災害時はとにかくおのれ1人の身を守るために、他人を救うことよりも自分を救うことを最優先しろ、という教訓を心に刻みたいと思います。
 結局それらひとりびとりのおのれを守るための避難が、災害の規模を小さくするのでしょう。

 もちろん、自分1人が大丈夫だという確信が持て、余裕があれば家族やご近所の方の救助をするのは当然のことですが。

 東日本大震災とそれに伴う津波、原発事故等で命を落とされた方々のご冥福を祈念いたします。

 合掌。

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