今日は広島に原爆が投下された日ですね。
駐日米大使と国連事務総長が平和祈念式典に出席するとかで、広島市長は浮足立っているようですね。
日本政府は戦後一貫して核軍縮に反対する立場をとってきました。アメリカの言いなりになって。
非核3原則は、とうの昔に破られましたし、今後も破られるでしょう。
作らず・使わずはともかく、持ち込ませず、は無理でしょう。アメリカの原子力空母は何度も日本に寄港していますし、そのたびにどこかに核兵器を下してくるなんて漫才のような話は聞いたことがありません。そもそも核兵器を積んでいない原子力空母なんて、無意味です。
もう六十五年も前なのに、今日から長崎の8月9日、敗戦の8月15日と、マスコミは先の大戦を取り上げてセンチメンタルにヒートアップしていきます。
戦争はいけません、核兵器は廃絶しましょう。
それはあんまり当たり前で、言っても切ないばかりです。
それを言うと、自己満足の思考停止状態に陥ります。
怖ろしいことに、困難を伴う具体策を考えなくなってしまうのです。
いやむしろ、困難を避けるため、あえて空念仏を唱えている気味さえあります。
私はそういう言辞を聞くと、非常に白けた気分になります。
重要なのは、具体的にどうするか、だと思います。
今起きている砂漠の国の戦争をどう終わらせるか?
どうしたら妥協点がみつかるか?
どこまで譲歩でき、どこまで譲歩させるようにするか?
今起きようとしている争いをいかに話し合いで解決するか?
そういう具体策を探る時に、過去の戦争ではこうであった、と過去に学ぶべきで、戦争を風化させてはいけない、などとヒステリックに叫ぶべきではありません。
悲惨な事件が起こると、忘れない、とか、風化させない、とか言う人がいます。
あれも切ないですね。
源平合戦や関ヶ原の合戦やらの歴史的事実は、歴史としては残っても、人に悲惨な戦いはやめよう、と思わせる動機にはなりません。
むしろ、ドラマや映画で英雄的に戦国武将を描いて、観客は殺し合いでしかない合戦シーンに見入っています。
フィクションではありますが、座頭市なんか、何十人も切り殺しています。そしてそこには、爽快感すら漂います。
過去の被害や加害を言い立てることは止めて、冷静に、現在の世界の動きを見つめることが肝要かと思います。
広島
