民主党代表選の決着とともに、猛暑は終わりを告げました。
ここ数日、朝夕は肌寒いほどです。
日本の家屋は夏をしのぎやすいように造られている、とはよく聞くことです。
裏を返せば、寒さには弱いということでしょうねぇ。
障子やら襖やら、紙で外と内を区切ろうというのですから、ずいぶん心細い話です。
現在私はコンクリートで分厚く固められた集合住宅に住んでいるので、冬は暖房がほとんど要らないほど暖かいのですが、夏は冷房なしにはいられません。駅近くに立地しているので、騒音やらプライバシーやらで、窓を開けて涼をとるということは考えられません。
プライバシーといえば、これは訳語がないのですね。
訳語がないということは、わが国ではもともとそういう概念がなく、また、文明開化以降もそのような概念を持つ必要がなかったということでしょうか。
日本家屋の特徴は、部屋と部屋を襖で仕切ること。
つまり大部屋を小さく仕切っただけのことで、開けようと思えば簡単に開けられますし、鍵をかけても素手で破壊できます。
幼児の頃から個室を持つのが当たり前の欧米とは大きな違いです。
「水戸黄門」などでは、旅籠で休むご隠居一行のすぐ隣、襖一枚隔てただけの部屋に、わけありの年増などが宿泊していたりします。
現在では考えられない、驚くべき不用心です。
しかしそれが当たり前であった時代には、開けない、という約束事を破るのは、とても恥ずかしく、世間様やご先祖様に申し訳が立たない悪事だったのでしょうね。
家屋に限らず、一つの鍋をつつき合うとか、銭湯や温泉に大勢で入るとか、酒を飲むにもさしつさされつ、何事につけ日本はプライバシーとは縁の無い文化だったようです。
逆に欧米で訳せない言葉に、心中があるそうです。複数の人間がほぼ同時に自殺した、また、無理心中などは、殺人後、犯人が自殺した、としか言いようがない、とのことです。
日本人は親子や夫婦など、近しい人に介入しすぎるのでしょうか。
家族といえども結局は他人なので、他人に対すれば他人行儀にもなりましょう。
しかし他人行儀というのは礼儀でもあり、親しき仲にも礼儀ありと言うとおり、家族だろうと恋人だろうと、礼儀を重んじるべきでしょう。
我が子といえども一個の別人格と思い知れば、おのれの所有物かと見まがうような、幼児虐待は起きないでしょう。
古刹やお城などを訪れるたびに、大名や高僧といえど、プライバシーはなかったのだな、と思います。
時折訪れて喜ぶのは良いとして、それが豪邸であっても、古式ゆかしい日本家屋に住むのは、ちょっと無理かな。