私はこのブログで、たびたび同性愛を扱った文学や映画のことを書いてきました。
それというのも、私は高校生の頃から、同性には友愛だけを、異性には性愛だけを求めようとする現代日本の風潮に、強い反発を覚えてきたからです。
元来わが国では、性が倒錯しており、軽々と性の垣根を超えることを良しとしてきました。
それが明治のご維新以来、欧米の文化にかぶれたのか、同性間の性愛を悪と見なす悪習がはびこってしまいました。
嘆かわしいことです。
私はあまたの文学や芸術に接し、人間関係というのは男も女もなく、性愛も友愛もない、という確信を得るにいたりました。
性愛と友愛を超えた愛、もしくは、性愛と友愛を併呑した愛というものが、誠であろうと思います。
しかしそう考えるに到り、私は大きな矛盾を抱えることになりました。
すなわち、私の精神は男も女も性愛の対象であり友愛の対象であるべきだと考えているのに、私の性欲が、女をしか欲しないのです。
困ったことです。
これではまるで、片翼しかもたず、飛ぶことができない天使のごとくです。
高校から大学にかけて、多くの同性愛者からアプローチを受けて、心は揺らぎながら、どうしても一歩踏み出せず、それどころか異性ばかりを追い掛け回した私。
しかし私の異性への執着は、奇妙な形で終焉を迎えるにいたります。
すなわち、うつ状態による性欲の著しい減退と、その後にきた躁状態による強すぎる性欲です。
この二つの異常な状態を抜けて、私は自分でもびっくりするくらい、性愛というものへの執着を喪いました。
まるで性器を持たないキューピーちゃんのようです。
そして今、初めて男と女を平等に愛し、平等に憎むことができるようになりました。
まったく不思議な気持ちです。
両性愛者に憧れていた私は、突如、両性嫌悪者とでもいうべき性癖を持つに到ったのです。
そしてまた、私は幼い頃から持ち続けてきた鉱物への極端な嗜好を高めることになりました。
血も涙も通わない、感情を表に出さない、生きているのか死んでいるのかさえ定かではない鉱物独特の生への憧れ。
それはまるで、自殺を繰り返す者が死に魅入られたように、鉱物のほとんど死に近い生が、私を魅了します。
この極端な嗜好が、私をして死に近づかせる危険なものなのか、あるいは静かな生を全うせしめる安楽をもたらすものなのか、今はわかりません。
しかし、私にはどちらでも良いのです。
いずれにせよその嗜好が、死にせよ生にせよ、私に幸福をもたらしてくれるだろうことは、間違いないからです。
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