プレカリアート

社会・政治

  precariat (不安定な)+ Proletariat(労働者)プレカリアート運動というものが近頃起こっているらしいですねぇ。

 1990年代、冷戦が米国側の勝利で終わった後、世界は米国型自由主義を至高の価値と見るグローバリゼーションの荒波に襲われました。
 わが国も例外ではなく、小泉政権によって国民は自助努力による自己責任を求められ、恐るべき格差社会が生み出されました。

 結果として、雇用の安定しない非正規労働者が激増し、やっと2006年頃から、生きさせろ、という驚愕のスローガンを掲げる運動が始まったというわけです。

 現在もそうですが、この運動が始まる以前、非正規労働者は努力不足によってもしくは自己選択にってなったものであり、ましてニートや引きこもりは自分がだらしないからだ、とされました。
 もちろんそういう面が否定できないことは確かです。

 しかしこれだけ巨大な人数が社会的弱者とされ、わけても30代半ばに達しようとするロスト・ジェネレーションがいまだに社会の底辺を彷徨うありさまは、もはや自己責任の一言では済まされない、社会問題であると考えざるを得ません。

 そこで必然的に起きてきたのが、プレカリアート運動というわけです。
 この運動、なかなかとらえにくい様相を持っています。
 憲法で保障された生存権を主張するのは当然ですが、なぜか生存には平和が必要だということで、平和運動としての一面も持っています。
 そうすると当然、プロの平和運動家が生存権を主張しているだけの人々を洗脳していくという副産物をも生み出しました。

 文学運動としては、ニートや引きこもりの人々が自分の生活や思いを気色悪い自己憐憫をもって語る、という、私から見ればアンチ文学運動とでも言う他ない方向性をもって、進んでいます。

 一昔前だと、負け犬とか負け組と呼ばれ、ダメ連とか、働いたら負け、とか言う自虐的なパフォーマンスを繰り広げていた連中が、アンチ新自由主義を掲げて組織だった動きを始めたと考えれば分かりやすいかもしれません。

 これら現代の新自由主義に反対する運動が今後どんな動きを見せるのか、注意深く観察する必要があるでしょう。

 それにしても「女工哀史」の昔から、単純労働者は苦痛に満ちた労働条件に耐えてきたのですねぇ。

 私も他人事ではありません。

プレカリアートの憂鬱
雨宮 処凛
講談社
プレカリアート―デジタル日雇い世代の不安な生き方 (新書y)
雨宮 処凛
洋泉社
女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)
細井 和喜蔵
岩波書店

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