三つ子の魂百まで、とか申します。
私は物心ついた頃から、なにしろ物語が好きでした。
で、物心ついた頃から今に至るも不思議に思っていることがあります。
なぜ世の中で物語といえば、恋の話がやたらと多いのだろうか、ということです。
物語を凝縮したものと思われる和歌や流行歌にいたっては、その大半が恋を題材に取り上げています。
私は幼い頃から奇妙な話や怖い話が好きで、それは今もそうで、42年の人生の中で恋の話や恋の歌にのめりこんだことがありません。
だからといって、恋に興味がなかったわけではありません。
私にはどこか傲慢なところがあって、私が惚れるくらいの女は必ず私に惚れるものだと思い続け、それはかなりの確度で当たっています。
私が初めて同世代の女性と接吻を交わしたのは、7歳のときでした。
今思えば、汗顔の至りです。
しかしそれは、私をして恋の物語から遠ざけるに十分な、エキサイティングな経験でした。
すなわち、私が望めば恋は物語ではなく、現実として始まるのだ、ということを学んだのです。
そして7歳が10歳になり、15歳になり、さらに20歳になるうちに、他人の恋物語に全く興味が無くなり、さらには自分の恋物語を語る気も失せました。
それに反比例するように、私は同性愛に憧れました。
なぜなら、悲しいことに私には全くその気がなく、その気がないにも関わらず男性から告白されたり、痴漢にあったりしたからです。
両性愛者に生まれれば、私が愛する対象は倍になるわけで、愛欲の楽しみも倍になったことでしょう。
もったいない話です。
そして私は、冷酷になっていきました。
それは、私が惚れる相手よりも、はるかに私に惚れる相手が多いからです。
男女問わず。
需要と供給の原則を思えば、私が冷酷になる道理です。
そうでなければ、私の体が持ちません。
そして今思うのは、平穏を保つことの難しさです。
これは忍耐と言ってもいいでしょう。
パートナーを一人の異性と決めて、それを何十年も保ち続けるのは、きわめて困難なことです。
しかし世の中は、結婚という制度を作ってそれを押し付けようとします。
それは動物の本能に反しています。
しかし運命は、私に天恵をもたらしました。
過去の不行状が祟ったのか、私は精神的な病を得、それは肉体に激しい影響を及ぼしました。
私はもはや、精神上の恋しか許されない、不能者に堕したのです。
そのことを、私は嘆いてはいません。
私は今こそ、私が恋物語に興味を持たなかった理由を知りました。
私はそんな俗なことから眼を背け、ひたすらに奇妙な物語や怖ろしい物語にあたるべきだと思い知ったのです。
これを三つ子の魂百までと言わずしてなんと言うでしょうか。
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