今日は寒いうえに冷たい雨が降り続いています。
先週注文した喪中葉書ができたので、家に閉じこもって喪中葉書の宛名印刷をしています。
といっても、わが家の年賀状は10年も前から筆王で作っていますので、そこに保存されている宛名をただ印字するだけ。
簡単なものです。
例年この時期になると、必ず何枚か喪中の葉書を受け取ります。
多くは友人や同僚の親が亡くなった、というもの。
年齢のせいもあり、ここ数年、親を亡くしたという喪中葉書を受け取る枚数が増えてきています。
それがとうとう、今年は出す側になってしまいました。
そう思ってみると、この冷たい雨が涙雨に思えてくるから不思議です。
人間、生まれるまでは今生では影も形もありませんが、ひとたび生まれれば、約80年、飯を食っては糞をひねり、仕事と称する雑事にかまけ、気がついたら骨になって冷たい石の下。
しかし生まれる前と決定的に違うのは、骨ばかりは何万年も残ること。
化石になってしまえば、人間の時間感覚ではほぼ永久的にその人が生きた証が残ることになります。
死んだら生まれる前と同じになるだけで、地獄も極楽もあるものか、という人がいます。
あの世があるかないかはともかく、生まれる前と同じになるわけではないことは、骨が残るという事実から明らかです。
一般庶民でも、家族や親族、友人が存命中はそれらの人々の記憶の中に残りますし、偉人ともなれば、何千年もその生涯が語り継がれます。
極悪人の場合もそうですが。
そう考えると、生きるということはとてつもない偉業に思えてきます。
平凡な人生のようであっても、病気をしたり、進学や就職で苦しんだり、近しい人の死に悲しんだり、艱難辛苦の連続であるように感じます。
現在世界で60億とおりものそのような偉業が進行中だとは、驚愕すべき事態です。
そしてまた、私自身の小さな生活も、60億分の1の偉業であることを思うと、少しは自分に自信を持っても良いような気分になりますねぇ。
喪中葉書を出すと言うことも、親を亡くすという重要な人生の節目で必要なこと。
それらライフ・イベントを着実にこなしていくうちに、今度はいよいよお迎えが来るわけですねぇ。
蓮の花に乗ったお釈迦様がお迎えに来るのか、ご先祖様が来るのか、それともあの世では一番の若輩者である直近の死んだ家族が来るのか知りませんが、蓮の花なんかには乗りたくない、と言ってあの世逝きを拒絶し、この世を彷徨うような事態だけは避けたいところです。
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