ボストンマラソンと道徳律

思想・学問

 ボストンマラソンの最中、爆発事件が起きました。
 それも2回続けて。
 死者3人、負傷者は130人にも達するそうです

 怖ろしいですねぇ。

 ランナーも観衆も生きた心地がしなかっただろうと思います。

 米国政府はテロ事件と見ているようです。

 テロというのは昔からあり、それが大規模になれば革命となり、革命が成功すればテロはテロとして裁かれることはなく、むしろ英雄的行為として賞賛されます。
 よく、一人殺せば殺人犯だが、100万人殺せば英雄だ、などという言説を耳にします。
 人間の歴史をみれば、悲しいかな、それは事実。
 正義というものも時と場所によって大きく変わります。

 現代、わが国を含む先進諸国では、自由と民主主義が普遍的価値とされています。
 しかし、未来永劫続く普遍的価値など人の世に存在し得ようはずもなく、それがじつは嘘であることは疑いの余地がありません。
 ただ、現世を上手に生きていくためには、自由と民主主義を信奉しているふりをするほうが得策です。

 戦時中、多くの人が天皇が神だなどとは思っていないのに、時代の要請に従って、やむを得ず天皇陛下万歳を唱えて戦いました。
 自由と民主主義を擁護するのもそれと似たようなものです。


 米国がお節介にも世界に押し付けようとする自由と民主主義も、かなり胡散臭いものだと思ったほうがよろしいでしょう。

 大体において、おのれが信じる価値観で動く人は扱いにくいものです。
 信仰を貫いて拷問に耐えて死んだ殉教者など、最も厄介な人種でしょうねぇ。
 何しろ死んでも言うことを聞かないのですから。

 付き合いやすいのは、損得勘定で動く人ですね。
 損得で動く人は分かりやすいし、交渉ができます。

 しかし信念で動く人とはそもそも交渉が成り立ちません。

 もちろん、誰もが損得だけを考えて生きていたら、それはそれで生きにくい世の中になり、弱肉強食になってしまいます。
 そのために宗教や武士道などの道徳律を発達させてきたわけでしょう。

 道徳律がよく機能するためには、まず共同体の中でその道徳律が認められ、多くの人が守ることが必要です。
 そしてその道徳律を否定するような別の道徳律が存在しないか、存在してもごくわずかであることも重要でしょう。

 
 自由と民主主義の厄介な点は、暴力に訴えないかぎり、あらゆる多様な価値観を認めようとすることにあろうかと思います。
 つまり、自由と民主主義そのものを否定するような価値観も認めなければならないわけで、その場合自由と民主主義と言う価値観は、自らを危険にさらす要素を根源的に持っていることになります。

 そうかと言って、現代社会を生きる私たちは、自由と民主主義を超える新たな価値観もしくは道徳律を確立し得ていません。

 前世紀後半、共産主義がそれに取って代わるかのごとき勢いを見せましたが、見事なまでに凋落してしまいました。

 したがって、私もまた、不承不承ではありますが、現代社会において比較的マシな価値観、道徳律は何かと問われれば、自由と民主主義と答えざるを得ません。

 人は誰も、時代の影響から逃れることはできないのですから。

 あぁ、私を強烈なカリスマで導いてくれる指導者が欲しいですねぇ。
 それを盲信して生きることができれば、こんな楽なことはありますまい。

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