なんでも今日は恋文の日なんだそうで。
やや無理目ではありますが、5月23日で恋文と読むそうです。
某映画会社が定めたとか。
かつて、恋文は恋情を伝える重要な手段でした。
しかし今、電子メールでのやりとりが一般化し、手で紙に文字を書いてそれを郵送するなどという悠長な手段を採る者は壊滅しました。
郵便は、もっぱら印をついた原本が必要な時や、内容証明、配達証明など、争い事の際に証拠となるようにわざわざ使う面倒なものに成り下がってしまいました。
確かに今、まず手紙を書くということはありませんねぇ。
電子メールのほうが早くて便利だし、ファイルを添付することによって大量のデータを瞬時に送れますから。
しかし、これらによって現代人が苦しめられているのも事実。
毎日職場のアドレスには何十通というメールが届き、しかもそのうち半数以上は、参考程度にCCで送られてくるものです。
そうは言っても一つ一つチェックしなければそれがどうでも良いものか重要なものか分からず、職場ではメール恐怖とでも言うべき者が続出しています。
それに比べて、手書きの恋文というのはずいぶん優雅で趣深いものです。
相手のことを考えながら、ゆっくりと、書き連ねていくわけですから。
思い起こしてみると、私は恋文なるものを贈ったことも貰ったこともありません。
多分私の世代くらいを境に、恋文というものは廃れたのではないかと想像します。
かつて渋谷に恋文横丁なる小汚い飲み屋街があり、学生の頃、時折訪れました。
恋文を代筆する者がそこにいたからそう名付けられたと聞いたことがありますが、ことの真偽は定かではありません。
今となっては誰も恋うることなどありませんが、生涯に一度くらい、下手な手書きで恋文を書いてみたいものです。
下手な和歌なんか添えちゃったりして。
でも、貰うのは嫌ですねぇ。
堂々たる中年オヤジの私に恋文を寄越すなど、どうせ碌な女ではありますまい。
近頃とみに、女性特有の、思い込みの激しい強い恋情に嫌悪を感じるようになりました。
私も30歳くらいまではそこそこ女性にもてたりして、それを良いことに悪行におよんだことも数知れませんが、今となっては、最も怖ろしいのは女性の強い情です。
幸いなことに、同居人はあっさりしていますが、それでも、時折くだらぬことをぬかして私を困らせます。
すなわち、自分はいつも君を見つめているのに、君は自分をちっとも見ようとしないだとか、早寝しようと布団にもぐりこんだ私に覆いかぶさって、自分が先に死んだらずうっとこうやって君に覆いかぶさってやるだとか。
困っちゃいますねぇ。
かつては惚れあって一緒になったとはいえ、もう15年も経つのですから。
古女房の顔など長時間見ていられるはずがないというものです。
かつて、ドイツの文豪ゲーテは、80歳を過ぎて16歳の少女に恋をし、熱烈な恋文を贈ったと伝えられます。
ことほど左様に恋情というものは人間性を狂わせる怖ろしいものです。
私がそんな恋情に駆られることが今後起ころうとは考えにくいですが、恋を忘れて久しいこの身に、淡い恋心が芽生えたとしたら、それはそれで楽しいのではないかと想像して、独り悦に入っているのです。
そんな僥倖に見舞われたのなら、一世一代の手書きの恋文でも書いてみましょうか。