昨夜は私の仲人で元上司の方と、この上司と仲が良かった別の上司夫婦が、夫を亡くして意気消沈の母を励ますため、勝どきの某料亭で小さな宴を開いてくれました。
私は別々の部署で、この二人の上司の下で働き、つまらぬ管理職が多い中、この二人は男気にあふれており、深く尊敬しています。
1人は完全引退し、もう1人は某商社で気楽な立場で働いています。
料亭は36階にあり、窓からは東京スカイツリーと東京タワーが見える見事な夜景が楽しめました。
仲人はもちろん、もう1人の上司も両親を交えて酒を飲んだことがあり、母とは旧知の仲でした。
母は着物を着て現れ、全員にそれぞれのイメージに合わせた扇子を日本橋三越で買ってきて、プレゼントしてくれました。
亡き父の思い出話に花を咲かせ、一年三か月前の父の死を悼みました。
人はこうして近しい人の死を悼み、そして日々の雑事にかまけて死者を忘れ、やがては自分の死を迎えるのですね。
時の流れというもの、いかにも残酷なものです。
しかし人は、時の流れに逆らう術を持っていません。
一直線に死にむかって突き進み、その合間に仕事に精を出したり、趣味を楽しんだり、小さな旅に出掛けたりするのですね。
父の死が私に与えた衝撃は計り知れず、父が亡くなった時73キロあった体重は、50キロちょうどまで落ちてしまい、今のところ増える兆候は見られません。
しかし、密葬を行い、本葬を行い、一周忌も済ませ、時には昨夜のような会を催すことで、少しずつ、父のことを思い出す頻度は減ってきました。
この世は生きている者のためにあり、死者は忘れ去られていくべきでしょう。
冷酷なようですが、生きている者が生を全うするためには、是非とも必要なことです。
そうであるならば、私もまた、父の死を忘れなければなりません。
それは寂しいことであるに違いありませんが、私と父は別人格。
私は私の生を、誠実に生きる必要があるのですから。