おっさんになると様々なことに納得し、仕方がない、と自分を慰めるようになるものだと、やっと気づきました。
ことに私の場合、ここ4年ばかりは安定しているとは言うものの、精神障害を抱えていますから、その再発を怖れ、いつも仕方ない、と自分を慰めています。
少年の頃、少年の夢や希望を詠う様々な作品に触れるたび、何も少年が誰しも野望を抱いているわけではない、と反発していましたが、40代も半ばになってみると、野望を抱くということ、切ないくらい若い者の特権なのだと痛感します。
よく言われることですが、失って初めて気付くということでしょう。
日々の雑事にかまけ、涙金のような安い給料をもらうために時間を費やす、子どももいないおっさんは、何を将来に夢見ればいいのでしょうね。
私が激しいうつ状態にある頃、精神科医は私の自殺願望が強いことを察知して、「人間というのは、何もしなくても、生きているだけで素晴らしい価値があるものなんですよ」と言いました。
しかし私はそれを聞いた時も、そして精神障害をほぼ克服した今も、医者の方便、すなわち嘘だと思っています。
生きているだけで価値があると信じることは、残念ながら身体・知的・精神すべての障害者を慰めるための嘘でしか無いことは明らかです。
例えば若くして自死した者の遺族に、坊主や参列者は素晴らしい人だった、残念だ、と慰めます。
生きているだけで素晴らしいのなら、その反対解釈によって、死者などどうでも良いはずです。
現世は生きている者のためにあり、死者はどうでもよいというのが、本当のところ。
しかし人間は愚かな知恵によって自らもいずれ死者になることを知っているがゆえ、死者を悼むための儀式を行うのです。
私が今思うのは、具体的な夢を見るのではなく、ただ日々を誠実に生きることによって、何か良いことが遠い将来あるかもしれない、という漠然とした夢を追うしかないのではないかということです。
これと言った才能もなく、ただ平々凡々と生きてきたおっさんに出来ることなどそれくらいしか思い浮かびません。
唯一平々凡々なおっさんとして生きてきて良かったと思うことは、世の中の圧倒的多数を占める平凡なおっさんの気持ちが分かることです。
私はそれらのご同輩に、泣けてくるほどの深い同情を禁じ得ません。