戦後68年も経っていますので、8月6日を特別視して広島への原爆投下を話題にすることは避けようと思っていました。
しかし5月に韓国のコラムで広島・長崎への原爆投下は神による罰であり、大日本帝国に支配されていた全民族の復讐だ、との記事が掲載されるに及び、これに触れないわけにはいかなくなってしまいました。
非戦闘員を含めた無差別大量殺人という意味では、原爆投下は戦争犯罪でしょうね。
ただし、それを言い出すと、第二次大戦を戦った主要国は、原爆では無いにしても、無差別大量殺人である敵の都市部への爆撃を行っています。
わが国も、主に中国の都市部への無差別大量爆撃を行っていますし、英独などは距離が近いことから、開戦するなり互いにベルリンやロンドンを爆撃し合っています。
当時としては、むしろ勝利に向けた当たり前の行為であったと言えましょう。
しかしそれは勝利を目指した戦闘行為であって、神の罰などであろうはずがありません。
大体それは何教の神様なんでしょうか?
天災地変にしても、戦争にしても、それらを神の意志だとか罰だとかぬかす輩が必ず現れます。
何をとち狂ったことをほざいているのでしょうね。
おのれの無教養をさらけ出す愚かな行為です。
ついでに言うと、原爆ではおよそ3万人の朝鮮人が犠牲になっていますが、それも神の罰なんでしょうか。
米国は勝利に向かって原爆を使用したのであって、それ以上でも以下でもありません。
社会派の名匠、オリバー・ストーン監督は今年広島を訪れ、原爆投下はソ連への牽制であって、原爆を投下しなくても大日本帝国は降伏したはずだ、と発言しました。
それは一面の真実を突いていますが、長い戦いに疲れた米国が一刻も早く戦争に勝利したい、というのが当時の米国政府の正直な原爆使用の動機であったろうと思います。
ただし、その後米国は朝鮮戦争・キューバ危機・ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争と何度も戦争や危機的対立を繰り返していますが、ついに核兵器を使用することはありませんでした。
核兵器は使えない、ということを思い知らされたのが、広島・長崎でのあまりにも甚大な被害を目の当たりにしたからであろうことは想像に難くありません。
もちろん、当時と違い、今や核兵器を所有する国はあまた有り、使えば報復攻撃を受ける、という恐怖が核兵器使用をためらわせる最大の理由であることは間違いありません。
私の母は4歳の頃、長崎で被爆しました。
わずか4歳の頃の情景を鮮明に覚えているそうです。
巨大な粒の黒い雨を浴び、黒こげになった人々が水を求めて這いまわる地獄絵図だったとか。
それら多くの原爆犠牲者のおかげで、今、多数の核兵器が存在しながら、事実上、使用できない武器になってしまいました。
もし原爆犠牲者の死に意味があるとすれば、世界中に核兵器の恐ろしさを身を以て示したことかもしれません。
そうでも考えなければ、あまりにもやれません。
一般的な米国人は、原爆投下によって戦争終結が早まり、わが国が本土決戦を断念したおかげで、100万人の米兵と、それに倍する日本人の命が助かったのだ、と主張します。
それは間違いではありませんが、おそらく大日本帝国が本土決戦を諦めた最大の理由は、原爆も去ることながら、日ソ不可侵条約を結び、米国との仲介役を期待していたソ連が、条約を破って8月9日に突如として満州から朝鮮北部にまで攻め込んできたことにあるのではないでしょうか。
そのわずか6日後に玉音放送が流され、戦闘が停止しましたし。
米ソ両国を相手にしては、とても戦えませんから。
いずれにせよ、原爆は神の罰などと失礼千万なことを平気で書き記し、マスコミがそれを垂れ流すような国とは、まともに付き合うことなど不可能でしょうねぇ。
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