二枚舌

社会・政治

 今日は長崎に原爆が投下された日。

 この暑いなか、平和祈念式典が行われ、もうすぐ退任する米国のルース駐日大使も出席しました。

 私の母は長崎で4歳のとき被爆し、特段健康に影響がないまま68年を過ごしましたが、被爆者手帳を持っており、都営バスや都営地下鉄は無料で利用できるそうです。

 原爆の被害に会われた方はご立腹されるかもしれませんが、私は少年時代から、どこも悪いところが無い母が被爆者というだけで優遇措置を受けられることに違和感を感じてきました。

 そんな折、被爆者や東京大空襲の被害者は戦没者や戦争被害者の中ではエリートだ、という言葉をある老人から聞かされました。

 母は亡くなれば、それがどんな理由であろうと被爆者名簿に掲載され、長崎の大きな公園で長くその被害を悼まれることになるでしょう。

 一方、長崎や広島では、被爆した女性は奇形児を生むことが多いと信じられ、結婚などで広く差別されてきたという話も聞きます。

 母は東京の大学に進学し、そこで父と出会い、東京では被爆者差別というのはほぼ皆無であったため、何の問題もなく結婚に至りました。

 そういった差別の問題がありながら、某老人が被爆者は戦争被害者のエリート、と言い放った言葉は、示唆に富んでいます。

 戦闘で亡くなった兵隊は、いわゆる非戦闘員とは異なり、これを殺害することは戦時下においては当然合法とされます。

 しかし、非戦闘員で、しかも戦闘の意志が無いことを示している者を、それと知っていて殺害することは、戦争犯罪とされます。

 当然、都市部への無差別爆撃は戦争犯罪であるに違いなく、戦勝国も敗戦国も、戦争犯罪を犯さなかった交戦国は存在しないと言っても過言ではありません。

 その中で、ことさら丁重に供養され、国家を挙げてその御魂を鎮めようと努めているのは、東京大空襲と広島・長崎の原爆による被害者だけであり、同じような空襲を受けた地方都市の被害者は忘れ去られている、とその某老人は言いたいのでしょう。

 私はそのような言説を耳にすることは初めてだったので、新鮮な驚きでした。

 なるほど、戦争犯罪によって命を落としたり障害を負ったりするのに、いつどこでそういう目にあったかは関係ありません。

 殺される本人にとっては、被害者が10人だろうと10万人だろうと、おのれ一人の命が失われるという不明の事態に立ち至るわけで、死後、もし魂が彷徨っているとしたならば、手厚く供養される原爆や東京大空襲の被害者が羨ましいという想いに駆られたとしても不思議ではありません。

 同様に、生き残った遺族は、彼我を引き比べて、自分たちの町や身内の被害者が不当に見捨てられている、と感じるのもやむを得ないことです。

 まず第一に、わが国は唯一の被爆国、という宣伝を止したほうがよろしいでしょう。
 そんなことを言えば、真珠湾奇襲攻撃や重慶爆撃で命を落とした無辜の市民は猛烈に反発するでしょう。

 ましてわが国は、戦後一貫して、唯一の被爆国と自慢しながら、核廃絶の動きには反対し続けてきました。
 今日の式典でも、広島市長はそのことを以て政府を責めていましたね。

 唯一の被爆国と自慢しながら、核兵器廃絶には反対し続けるという自己分裂のような行動を取り続けているのは、ひとえに国内向けには被爆国という被害者の面を強調し、対外的には米国の軍事的属国である哀しさで、核大国で核兵器削減に拒否反応を示す米国と歩調を合わせる必要があったわけで、一種の二枚舌を使い続けてきたというわけです。

 その矛盾のうえに、原爆や東京大空襲以外の空襲などで被害にあわれた方が不公平感を持つような慰霊の仕方を続けてきたことは、国として反省し、改めなければならないでしょうね。


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