今年は種々の理由により、お盆に墓参りに行けないため、今日、実家の寺に墓参りに行きました。
馬鹿馬鹿しいほど暑かったですねぇ。
昨年は亡き父の新盆のため、8月13日に休暇を取り、同居人及び同居人の両親とともに墓参りに出掛けました。
一年前には実家に濃厚な亡き父の気配が漂っていましたが、今年は大分薄まっているようでした。
こうやって、死者は過去の思い出でになり、ついには歴史になってしまうのですね。
お父ちゃん子だった私には、耐えがたいほど寂しいことです。
しかし、生きている人間が、死者にとらわれるわけにはいきません。
私は深く父の深い思想性に敬意をはらいながら、私独りの幸福を求めなければなりません。
それにしても、人が死ぬということ、これは大変な事態です。
当然居るべき人が、永遠にいなくなるのですから。
私は父の死を嘆き悲しむわけでもないまま、精神的には平気なつもりのまま、胃袋だけが食い物をまともに受け付けず、父の死後一年半で、体重が24キロも落ちるという信じがたい事態を迎えることになりました。
今の私はまるで骨皮筋衛門です。
それでも、私は仕方ないと思っています。
私にとってあまりにも巨大であり、知の巨人でもあった父が、私を導くことを放棄して、亡くなってしまったのですから。
しかも父は、生前の格好つけ同様、まるでおのれのダンディズムに殉じるかのごとく、死の苦しみも、老いの醜さもさらすことなく、格好をつけたまま、はかなくなってしまいました。
その死後、2~3日は、お茶を飲んでも戻してしまうほど、私の胃袋は弱ってしまいました。
ましてまともに飯を食えば、ゲロ間違いなしです。
40歳を過ぎた倅が、父の死でこれほど強い影響を受けようとは、想像もしないことでした。
しかし、現世は生きている者のためにできています。
この上は、ストレスフリーの人の寿命であるべき120歳まで生きて、この世の移ろいを眺めたいと切望しています。
そして、地獄でか極楽でか、私は父と再会を果たし、現世の移ろいを報告したいと思っているのです。