秋めく

文学

 この2、3日、すっかり秋めいてきました。
 涼しくて過ごしやすいのは有難いですが、陽が短いのはやれませんねぇ。
 陽が短いと、なんとなく気分も晴れません。

 しかし、わが国においては四季それぞれの楽しみを味わうのが伝統というもの。

 秋から冬にかけて、酒の味も上がるというものです。

 うしと思ふ わが身は 秋にあらねども 萬につけて 物ぞかなしき

 和泉式部の和歌です。
 これなどまさしく、春愁秋思をそのまま詠んだというべきで、なんでだか分からない、秋の物思いを素直に詠んでいて、好感が持てます。

 秋ふくは いかなる色の 風なれば 身にしむばかり 哀なるらん

 これも同じ歌人の手によるものです。

 和泉式部という人は歌詠みの中でも特に技巧的で、巧すぎるのが難点とさえ言われますが、秋の歌には素朴な情趣が感じられます。

 たのめなる 人はなけれど 秋の夜は 月みで寝べき 心ちこそせね

 これも和泉式部の歌。

 こちらは、彼女らしく、秋を詠って技巧的です。
 安心感がありますねぇ。

和泉式部集 (岩波文庫 黄 17-2)
和泉式部,清水 文雄
岩波書店

 

和泉式部日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
川村 裕子
角川学芸出版

 私はあまたの和歌や俳句、漢詩に親しんできましたが、自分では作れない愚か者です。
 作って作れないことはありませんが、陳腐なものしかできません。

 私にとって、散文を書くのはいともたやすいことですが、人の心を打つような韻文を生み出そうとすると、地獄の苦しみです。

 それでも、正月一日には、毎年、いつ寿命が尽きても良いように、辞世を用意しています。
 それは和歌だったり、俳句だったり。
 漢詩を作ったことはありませんが。

 亡父の辞世は漢詩でした。
 それも返り点がない、いわゆる白文です。

 坊主が辞世を漢詩で残すのはわが国の伝統であり、それに則ったものと思いますが、内容が坊主らしからぬ謎めいたものでした。

 私は今も時折亡父が残した辞世を睨み付けて、通り一遍の解釈ではない、亡父の真意を読み取ろうと悪戦苦闘することがあります。

 しかしそれは、今のところ徒労に終わっているようです。

 それを理解することができるのは、いよいよ私の寿命が尽きようとする時なのかもしれません

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