今日はわが国にとって、忘れてはならない重要な日です。
日英同盟以来、友好関係にあった英米と対決する姿勢を鮮明にした象徴的な日。
日独伊三国軍事同盟を締結した日です。
時に昭和16年。
日米開戦の2カ月強前です。
すでに昭和12年に日独伊防共協定を結んでいましたが、これはもっぱらソ連に対抗することを意識したもの。
軍事同盟は、三カ国が一致して世界と戦う決意を示したものと言えましょう。
これら3カ国は、英米仏露などに比較し、帝国主義国家としての国際デヴューが概ね30年ほど遅く、それがために植民地が少なかったため、新たな国際秩序を求める、という共通の利害がありました。
しかし、仔細に見れば、将来の独ソ戦を見据え、ソ連に2正面作戦を仕掛けるために大日本帝国を利用したいというのがドイツの本音であり、一方、大日本帝国は敵対関係にあった米国をけん制したい、という思惑があり、イタリアは日独にくっついて植民地を増やしたいという欲があり、ほとんど同床異夢とも言うべき複雑な思惑がからんだ同盟だったと言えましょう。
ヒトラーは一際この同盟を喜び、「我々は3,000年間負け知らずの日本と手を結んだ!」と叫んだと伝えられます。
負けてばかりのドイツ人らしいですねぇ。
日本臣民もまた、当時ヨーロッパで破竹の勢いだったナチス・ドイツとの同盟を喜び、来るべき対米戦を心待ちにしたと伝えられます。
高村光太郎は、戦後戦争に協力したことを反省し、山中で隠棲してしまいますが、開戦の時は下のような勇ましい詩を残しています。
記憶せよ、十二月八日
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは我等ジャパン、眇《すがめ》たる東海の国にして、そを治しめたまふ明津御神《あきつみかみ》なり。
世界の富を壟断《ろうだん》するもの、強豪米英一族の力、われらの国において否定さる。
我らの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙《そうが》を摧《くだ》かんとす。
われら自らの力を養いてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する十二月八日を記憶せよ。
また、当時ビルマで英国の植民地の首相を務めていたウ・ソーは、真珠湾攻撃の日、ホノルルにおり、日本軍機の攻撃に逃げ惑う白人たちを見て、驚愕したと言います。
ウ・ソーが見たのは、自分達と同じ肌の色をした日本人が、白人の力と英知の象徴とされた飛行機を操り、絶対者であった白人を叩きのめしているという信じがたい光景だったわけです。
おびえて逃げ惑う白人の表情は彼にとって初めて見るものでした。
彼は帰国後、日本に「満州国と同じように、大日本帝国の保護下に入れて欲しい」と申し出てさえいます。
その後、ハンガリー・ルーマニア・スロバキア・ブルガリア・クロアチア・ユーゴスラビアが軍事同盟に加わり、また、同盟には加わりませんでしたが、タイとフィンランドも枢軸国として戦いました。
しかし、大日本帝国より2年近くも早い1943年の10月にイタリアは降伏し、なんと昨日までの同盟国、ドイツに宣戦布告。
最後は戦勝国になってしまいました。
ドイツの酒場などでは、老人が日本人を見かけると、「ドイツは日本より3カ月も早く敗れて申し訳なかった。イタ公のせいだ。今度はイタ公抜きでやろうぜ」と話しかけてくる、という噂を耳にしますが、30年くらい前までは本当にそういうドイツ人がたくさんいたようです。
結局枢軸国は連合国と違い、緊密な連絡を取ることなく、それぞれの戦場でそれぞれの国が独自に戦いを繰り広げ、手痛い敗北を喫することになりました。
人種差別を否定して東亜の植民地を解放し、大東亜共栄圏を作ろうというのは立派で高邁な思想で、結果的に皮肉にもわが国が敗れたことで実現してしまいましたが、負ける戦をしてはなりません。
卑怯者の誹りを受けようとも、小ずるく立ち回って、勝ち馬に乗らなければなりません。
一般庶民は侍ではありませんから。
政治家は、下々の幸福を第一に考えるべきで、勝ち目の薄い戦を決断するなど、愚の骨頂というべきです。
日独伊三国軍事同盟締結という破滅への一歩を記した今日、常に戦わない国、戦う場合には勝てる戦しかしない国であり続けるべく努力することを肝に銘じたいものです。